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短編集82(過去作品)

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 根本はいつも肝心なことが抜けている。詰めが甘いということなのだろうが、「起承転結」の「起承」まではいいのだが、「転」をうまくまとめることができずに、最後の「結」を迎える。まるでとってつけたような内容になりはしないか、いつも自分で不安に思っていた。
 自分の作品は自分で読み返しても、所詮限界がある。他の人に見てもらうことで、「転」の部分が完成されてくるように思っている。作品を見てもらうことにしたのは、恵美子という女性と知り合ってからだ。
 恵美子と知り合ったのは、本当に偶然だった。
 会社の近くに喫茶店があるのだが、前から一度寄ってみたいと思いながら、なかなか近づくことはなかった。営業から会社への帰り道にあって、会社から家の帰り道とは少し違っていたからだ。
 だが、いつも帰社時間の頃には見せの中からおいしそうなパスタの匂いがしている。その日はたまたま営業コースを変えたために違う道から会社に戻った。
 その日は給料日で、いつも恒例になっている外食をしようと最初から心に決めていたので、会社までの帰りに見かけなかったいつも気になる喫茶店に寄ってみることにした。
 路地をいくつくらい曲がっただろう。会社からそれほど距離があるわけでもないのに、やたらと角を曲がらなければならない。いつもと反対方向から来ているので、迷いそうである。案の定、いつのもつもりで曲がると最初の位置に出てきたりして、自分が意外と方向音痴なのを思い知らされた。
 会社を出る頃はまだ明るく、西日が眩しかった。しかしいくつも角を曲がる間に太陽はすっかりビルの陰に隠れてしまい、ビルの谷間に見える空の一角だけが、まだ太陽の眩しい光の尾を引いていた。
 ゆっくりと空を見上げて歩いていたが、すぐに目を正面に移すと、すでに下界には夜の帳が下りていた。遠くにはネオンサインが煌いていて、美しいコントラストを描き出している。
――空を見上げて歩くなど、会社に入ってから初めてだな――
 田舎にいる頃は、空を見上げることが多かった。綺麗な空を見上げて、
――どこの世界の人も同じ空を見ているんだな――
 漠然と考えていたが、それが間違いだったことを今さらながらに思い知らされた。空をしみじみ見上げるのは初めてだが、都会に出てきて最初に見上げた空の何とも汚濁交じりで汚かったこと……。これからもこんなものをずっと見続けなければならないと思っただけで億劫になった。
 まるでネオンサインが都会の空である。作られたものというイメージはまさしく都会の景色ではないか。しかし、それも発想が作り出したコントラストのある世界。それはそれで見事なものだ。ネオンを見ていればいつも何かを考えていた子供の頃を思い出す。一体根本はどんな子供だったのだろう?
 好奇心旺盛だったあの頃が懐かしい。いつの間にか好奇心はあっても、それを確かめようという気持ちが欠落しているかのように思える。きっと好奇心を確かめる術などどこにもないことを自覚したからに違いない。
 思春期になって恋愛しては失恋していたが、中にはショックが尾を引いたものもあった。「男のくせに」
 と言われるかも知れないが、傷心旅行をしたりもした。しかし、どこに行っても、そこは自分の居場所ではないのだ。そこには自分を待っている人はいなかった。
 昔住んでいた懐かしい場所に行ったこともあったが、そこには住んでいた頃の自分の思い出はあっても、今の自分が入り込める隙間などどこにもない。それが悔しくて、そして虚しく感じられる。
 いくつもの路地を曲がってやっと目指す喫茶店が見えてきた。白塗りの壁が夜の帳が下りた中でひときわ明るく見える。ビルの谷間からは少し離れたところに位置していることからも、明るさが目に沁みるほどである。
 秋も深まってくるとさすがに、日が沈むと寒気を感じてくる。しかもビルの谷間から吹いてくる風は半端ではなく、特にその日は風が強いせいもあってか、指の感覚がなくなるほど凍てついていた。
 真っ白な壁が冷たさを思わせたが、反射する明かりが暖かさを誘う。表から見ただけでも中はほんわかと暖かそうで、早く中に入りたい衝動に駆られてしまった。入り口の明かりも眩しく、今にもコーヒーの香りが漂ってきそうだ。
 入り口の扉を開けると、鈴の重たい音が店内に響き、同時にコーヒーの香りが漂ってきた。想像通りの店内に、思わずにんまりとした根本だったが、一緒に空腹感がよみがえってきたのに気づいたのだった。
 カウンターの奥に一人女性が座っているのがすぐに目に付いた。本当は一番奥に座りたかったが、そこに人がいたことは出鼻をくじかれたようでがっかりさせられたが、それでも女性なので腹も立たなかった。
 客は他に誰もおらず、その女性一人である。一人、喫茶店のカウンターにたたずんでいる姿を想像していたので、最初はがっかりしたが、女性であることが確認できると、むしろ楽しい気分になっていた。
 女性はマスターと話をしているようだった。扉を開く前の表からでもその横顔には楽しそうな雰囲気が滲み出ていて、明るい性格なのだろうことは想像できた。長い髪が肩まで伸びていてハッキリと表情が見えないが、一瞬指で髪を掻きあげるような仕草から明るい表情を垣間見ることができたのだ。
 その女性が恵美子だった。
 初めての客の私なのに、入ってくるのを見かけると、こちらを振り向きざまにお辞儀をしてくれた。こちらも思わず笑みを浮かべながらお辞儀を返したくなるほどの会心の笑みを浮かべている。横からの笑顔と、正面からの笑顔では少し雰囲気が違うように感じたのは気のせいだろうか?
 長い髪の間から見える横顔で一番の特徴は鼻の高さだろう。ストレートに長い髪で、鼻の高い女性が高貴に見えるのは気のせいかも知れないが、知性を感じるのは間違いないことだった。
 最初一番手前のカウンターに座ろうかと思ったが、恵美子の表情を見て気が変わった。一つおいた席に腰を掛けると、話の腰を折らないようにコーヒーを注文だけして、さりげない素振りをすることにした。
 聞いているだけで楽しいということがあることを思い知らされた気がした。話の内容は他愛もないもので、女性の方から一方的に話していて、マスターがグラスを拭きながら相槌を打っている。別に愚痴をこぼしているわけではないのに、話があっちこっちに飛んでいるが、楽しそうな表情を見ていると、あどけなさが感じられて、少々のことは許せそうに見えるのだ。
「私って役得なのかも知れないわね」
 親密になってから恵美子がいつもの笑顔を浮かべながら話していた。
「その笑顔が役得の証拠さ」
 そう感じたが、言葉に出して相手に伝えたかどうか、覚えていない。もし言ったとしても恵美子の表情は変わらないだろう。いつも笑みを浮かべていて、どんなことにもあまり表情を変えることのない恵美子と一緒にいると、時々自分のペースが狂ってしまうと思うくらいである。
 その時の話は、マスターの知り合いに小説家がいて、その人の話題だった。思わず小説家という言葉を聞いて話に加わってしまった根本を、二人は暖かく迎えてくれる。
「そうですか、お客さんも小説をお書きになる。小説家のタマゴですね?」
作品名:短編集82(過去作品) 作家名:森本晃次