潜在するもの
本を出したいと思い、製本に掛かってから実際に本ができるまで、かなりの時間が掛かるだろう。破綻をきたした時には、まだ契約をしていない人はいいのだが、本を出すという契約をして本を出していない人は中途半端な状態だった。
さらに本を作った人、彼らも千部単位で作っている。実際に本屋に並ぶことはないのだから、そのすべてが出版社の「在庫」となる。万が一本屋に並んだとしても、一日か二日で返品されてくるのが関の山。そうなると、発刊したすべての本は大量の在庫になっていた。
宣伝費を絞ったとしても、社員に対しての人件費、さらに事務所の家賃など、そして在庫の山の保管費用。それらすべては毎月発生しているのだ。
経営不振は一気にそのまま破産へとまっしぐらであった。
その際に割を食ったのは、債権者である。
製本製作を請け負った印刷会社への支払い、家賃や在庫の保管費用などが、割を食う。
さらに問題になったのは、本を出した人と、これから本を出す人だった。これから本を出す人はもうこの会社からの出版は叶わない。しかも、払った費用が戻ってくることはない。本当に踏んだり蹴ったりだった。
また本を出した人も、山になっている在庫をただでもらえるというわけではない。
「定価の二割引きにて、引き取ってもらうことは可能」
だというのだ。
「こっちはお金を払って出した本なんですよ」
と文句をつけても、弁護士からは、
「引き取ってもらえないと、廃棄するだけです
という事務的な返事しか返ってこない。
要するに相手の弁護士側は、出版社の利益しか考えておらず、一作家がどうなろうと関係ないのだ。相手の心理を逆なでするだけで結局はどうにもなるものではなかった。
これがいわゆる、
「自費出版詐欺問題」
として、一時期社会問題となったことであった。
だが、これは一部の作家志望の人にしか知られていないことであり、数年が経ってしまうと、世間も忘れてしまうだろう。これがバブルが弾けた後に、うまい商法を見つけたことで飛びついた数社による詐欺事件だったのだ。
実際に、この手の出版社は数社あり、そのほとんどはほぼ同時期に破産している。もちろん生き残った出版社もいるにはいたが、もう今までのようなやり方は通用しない。その後どのように生き残ったのかなどは興味もないので、気にもしていないが、人間の心理を巧みについたこの事件は、センセーショナルな事件であったと言っても過言ではないだろう。
それが今からどれくらい前になるだろうか? 十年近く前のことだったように思う。そして時代は本を出版するという時代から、ネットにアップするという時代に流れていった。ネットであれば、製本のような手間もかからないし、数年前から普及してきたスマホなどのタブレット端末からも簡単に投稿できることから、自費出版社系にウンザリした人が流れていったのだ。
だが、さすがにバブルが弾けてすぐくらいの頃ほど、
「作家になりたい」
という人は減ってきただろう。
そこへもってきての詐欺商法だ。本を出すことのリスクを目の当たりにして、諦めた人も相当いたに違いない。しかし、もちろん全員とは言わないが、そのほとんどは、文章作法すらまともに書けない、
「にわか作家志望」
だったと思えば、爆発的に減ったとしても、それは自然なことでしかないと納得できる気がした。
いわゆるSNS形式のサイトは、無料で投稿できるところもたくさんできて、作品をネットに公開することで、たくさんの人に読んでもらい、感想やレビューなどを書いてもらえば、
「ひょっとすると、出版社の担当の人に見てもらえるかも?」
という淡い期待もできるというものだ。
もちろん、ほぼないことは想像はつくが、それでも、協力出版で日の目を見ることもなかったのに、大金をはたいていたことに比べれば、幾分も気が楽である。
ただ、サイト運営にも出版社関係が関わってくると、作家への道も少し開けるのかも知れない。
活字にするのではなく、ネット小説として売り出すやり方だ。
かつては。小説というと、純文学であったり、エンターテイメント系と、くっきりとジャンルが別れていた。その中でもエンターテイメント系では、ホラー、SF、青春、恋愛、ミステリーなどと細分化されてはいるが、かっちりとしたジャンルが昔から確率されていた。
しかし、最近では、特に携帯などで小説を書けるようになると、ライトノベルズなどのように、簡単に読める小説が巷に増えてくるようになった。
ゲームの原作がヒットしたり、ファンタジー系の小説が広く読まれるようになると、本格小説よりも、ライトノベルの方が売れたり、読まれたりしているようだった。
実際に小説投稿サイトによっては、どのジャンルが強いというような、
「カラー」
も生まれてきて、その影響からか、ライトノベルが主流になっているサイトも多く見られる。
これをただのブームと見るか、これからの時代を象徴していると見るかは難しいところではあるが、明らかにライト系に走っているのは間違いないようだ。
だが、有名作家の本格派小説は相変わらずの人気で、まだまだライトノベルの入り込む隙はないと思っているのは、少数派なのであろうか。
そんな中で、昭和の末期、つまりはバブルの時代に新人賞を取った作家がいたが、彼はその後、次回作を期待されながらも、鳴かず飛ばずで、アルバイトをしながら執筆活動を地道に行っていたが、その間に出した本は数冊しかなかった。
それでも独自の路線を貫いている作家というのは、思ったよりも多いようで、時代に埋もれそうになっているのを、何とか生存しているという事実だけを残しながら、踏みとどまっている人もいるのだった。
今では、もう五十歳も過ぎて、そろそろ六十歳が見えてきたこの頃、結婚することもなく、人とのかかわりと言えば、たまに出かけるスナックでの会話か、執筆に毎日使っている喫茶店での挨拶程度の会話というものであった。
彼の名前は遠藤健介。ペンネームである。本名は酒井健介というが、まわりには遠藤健介という名前で通っているので、自分でもそれが本名であるかのような錯覚すらあったほどだ。
遠藤は、下町にあるアパートに一人暮らしであるが、ほとんどは外食をしている。最初はお金がないということで自炊をしていたが、よく考えてみると、一人での自炊は却ってお金がかかることに気付き、ここ十年くらいは馴染みの喫茶店を見つけて、そこで食事を摂るようにしている。
朝食と夕飯はほとんどがそのお店なので、普段でも一日に二回は立ち寄ることになる。店に通うようになって一週間もすれば、
「もう常連さんですね」
と言われるようになり、最初の一週間とそれからの約十年という区切りだけで、あとの約十年は、これと言って変化のない日々だった。
昼食は、食べたり食べなかったりで、たまに都会に出かけた時に、どこかで昼食を摂ることもあったが、ほぼここ最近ではまず昼食を摂ることはなかった。
元々朝食を摂ることがなかった。