潜在するもの
小説家になりたいという人はその時、実際にかなり増えていた。文章を書いたこともない主婦や、学校で文章校正など勉強したこともない連中が書くのだから、それこそ、文章の体裁をなしていないものも多かっただろう。それを教えるのが文章教室、どこまで教えてくれるか分からないが、入門編は、本当に体裁を整える程度のことしか教えてはくれなかったに違いない。
ちょうどその頃だっただろうか。テレビドラマで、ある作家志望の女の子が、出版社に原稿を持ち込んで、彼女が帰ってからすぐに、
「こう毎日じゃあ、相手するだけでやってられないよ」
という相手をした編集者の愚痴とともに、せっかくの原稿が、ボミ箱行きになるというシーンを写したドラマがあった。
その後は、見るのも嫌で見ていなかったが、そんなシーンを見せられると、さぞや当時であれば、小説家になろうなど、夢のまた夢だったということを証明したようなものだった。
――ひょっとすると、その後のこんな時代を予見して、わざとあんなドラマを作ったのかも知れない――
と思ったほど、バブルが弾けてからの新手の商法は、注目を浴びることになる。
作家になりたいと思っている人も、今までは、あまりにも敷居が高すぎて、文章を書くということだけで挫折して、実際に目指す人は一握りしかいなかっただろう。
しかし、それでも教室に通ったり、通信講座で添削を受けたりして、少しはまともな文章力を身に着けた人が作家になるには、もってこいと思われる時代だった。
時間はたっぷりあるサラリーマンやOLであれば、五時から帰って、食事と風呂さえ済ませれば就寝までの時間は自由に使える。執筆にはちょうどいい時間であった。
最初は、一日三十分くらいから始めれば、次第に時間を延ばしていって、二時間、三時間と書けるようになれば、書くことへの抵抗はなくなってくる。根気よく続けていれば、どんなに困難だと思っていることであっても、できないことはないという自信にもなってくるのである。
小説を書くというのは、根気のいることであるが、趣味として気楽にたろうと思えば、いくらでも書き続けることはそう苦難なことではない。自分で苦痛だと思いさえしなければいくらでも書けると言ってもいいかも知れない。
文章が書けるようになりさえすれば、後は見てもらえる人がいれば、さらに上達もするというものだ。
それまでであれば、作品ができれば、その評価は応募しかなかった。しかし、応募して万が一にも入選でもしない限り、選考に関してはまったく非公開である。
賞によっては、二次審査通過、三次審査通過と通過者の名前を公表してくれるところもあるが、小さなところではまずそんなことはない。入賞、入選者の名前と、入賞者の作品の評価が書かれている程度で、自分がどこまでいけたのか、まったく分からない。
二次選考、三次選考に残ったと公表された人も、作品の評価はまったくされない。合否という結果だけで一喜一憂するだけであるので、当然自分の実力がどれほどのものだったのかなど、分かるはずもない。
そういう意味でも、小説家を目指す人が少なかったのも分かる気がする。
まず、文章が書けるようになるまでのハードル、そして選考に残るというハードル。それらを超えないと入選などおぼつかないのだ。
しかし、落選してしまうと、何のどこが悪いのかなどまったく分からない。そうなってくると、選考自体も怪しいと思われても仕方がないだろう。
「選考に関してもご質問は一切承りません」
という但し書きを書いている応募がほとんどで、これほどブラックなものもないと言えなくもないだろう。
そんな状況で、新手の商法が出現した。それは、
「自費出版系の出版社」
というもので、普通にいわれている自費出版というのは昔からあった。
趣味で書いた小説を、出版社と印刷会社が、見積もって本にするというもので、あくまでも、趣味の世界でしかなかった。
自分史だったり、散文だったりするものを、老後の趣味として、知り合いなどに配るというもので、ある種の自慢と自己満足というだけのものだった。退職金をそれに充てる人もいたことだろう。それでも自分で本を出すのだから、気分はそれなりによかったに違いない。
ただこれはあくまでも趣味の世界だ。実際にプロとしてデビューしたいと思っている人には物足りないものだ。そこで登場したのが、新たな発想を供えた「自費出版系」と言われるものである。
いくつかの会社が一時期はあったのだが、新聞や雑誌の広告として、
「あなたの作品を本にします。原稿をお送りください」
と書かれている。
そして、その後に書かれている言葉に興味を持つ人も多いのではないだろうか。
「結果を批評とともにお返しいたします」
と書かれているのだ。
今までであれば、持ち込みした場合など、作品の評価はおろか、見もせずにゴミ箱行きだったことを思えば、少なくとも見てくれて、しかも評価を添えて返してくれるというのだから、それだけでも、今までにない画期的な発想であることは伺える。
さらに、この商法の目玉と言われるのは、出版方式を三段階にランク分けしていることだった。
まずは、作品を読んで、出版社が費用を全額出してもいいというほどの優れた作品には、まるでプロ作家のような待遇で、全額出版社が負担し、さらには既定の印税も支払うというものである。それを「企画出版」と言ったりしていた。
そして二段階目は、優秀な作品ではあるが、さすがに全額を出版社が負担するほどのリスクは負えないので、本を出す場合には、筆者と出版社が共同出資という形で本を出すというものだ。その場合、著作権は筆者にあり、売れれば印税は筆者に入る。そして発生する費用としては、製本に掛かる費用、さらに宣伝に使う費用、その他もろもろだという。したがって。本を出した場合の宣伝も出版社が担うということになっているので、少々高額でも、本を出したいという人もいるだろう。これを出版社では「協力出版」だったり、「共同出版」という形で評している。
三段階目は、いわゆる今までに言われている自費出版で、趣味で出したい人の応援をするというものであった。
原稿をさっそく送ってみると、しばらくして、出版社から返事が返ってくる。作品に対しての批評、そしてどの出版で行くかの出版社側の判断、そして、それに掛かる費用の見積もりなどである。
批評に関しては、結構細かいところまで論じてくれている。表面だけを斜め読みしていただけでは決して書けないようなレビューを書いてくれているのだが、そこで一つ気になったのは、いいことだけではなく、ちゃんと直すべきところも書き加えてくれているということだった。いいことばかりしか書いていないものは、どうも信用できないという人もいるだろう。悪いところをどのようにすればよくなるかということまで書かれていると、胡散臭いと最初は思っていても、信頼できると思い返すことに繋がるというものだった。
そして、三つの選考の結果であるが、まず限りなく百パーセントに近い確率で、「協力出版」を言ってくるはずだ。