潜在するもの
しかし、二十代中盤くらいの人間も悲惨だった。バブルが弾ける数年前に入社した連中は、いわゆる就職活動において、
「売り手市場」
と呼ばれた時代だった。
企業側が優秀だと思った社員の抱え込みに入った頃もあって、優秀と思える人は、大手企業を数社受けて、すべて内定をもらうなどということも少なくはなかった。
企業はそんな優秀な社員を、ライバル会社に取られたくないという目論見から、新入社員の抱え込みに入る。
内定してから入社するまでに、いろいろなサービスを試みる。入社前の研修という名目で、海外旅行をさせてみたり、あの手この手での抱え込みに走っていた。
そのうえ、入社承諾書にサインをさせて、抱え込むのだが、そんな彼らが数年後には、その時の企業のトップもまったく想像もしていなかったバブルの崩壊という未曽有の不況に見舞われて、社会構造が変わってしまったことを自覚すると、その時に大量に入社させた社員が、邪魔になってきたりする。
もちろん、幹部候補のような本当に優秀な社員は別だが、中途半端な社員は、そこでリストラの対象にされてしまう。
「入社する時は、ちやほやしといて、首を切る時はこんなに簡単だったとは」
と感じた若手社員も少なくはないだろう。
それだけ社会構造の変化は、高速だったということであろうが、今の人はそんな時代を知っている人も少なくなってきていることだろう。
それでも、その頃に生まれた社会現象が今も残っているというのは、あれから、あの時ほどの大きな社会変化が訪れていないということではないだろうか。バブルが弾ける前の三十年前というと、ちょうど高度成長時代。その後にも不況が襲ってきたが、日本人は知恵で乗り越えた、バブル崩壊も時代の流れに逆らうことなく乗り越えてきたと言えるかどうか、歴史がどう証明しているのか、誰が分かるというのだろうか?
趣味を商売にした商法は、結構当たっていたようで、アフターファイブには、資格を取りたい人や、趣味を通じて、今まで知り合ったこともなかったような人と知り合えることなどが受けたのだろう。サラリーマン以外の主婦層にも普及していたようだ。
実際に、今まで仕事で遅かった旦那が、早く家に帰ってきて、家族団らんの食事を摂ることができるのが嬉しいという正統派な家庭ばかりではなく、せっかく、旦那がいない毎日に慣れてきたのに、いまさら旦那が早く帰ってくるなど、鬱陶しいと思っている家庭も多かったに違いない。せっかく自分のペースで毎日を過ごせていたのに、旦那が帰ってきてから、いまさら大黒柱面されても迷惑だと思ったことだろう。
社会だけではなく、学校でも苛めの問題などが深刻になり始め、家庭崩壊が切実な問題となってきたのも、この時代だっただろう。趣味という名目で、旦那も奥さんも表に出ることができれば、家庭崩壊であったとしても、変なストレスはたまらずに済むというものだ。
そんなカルチャーの中には、今までは高根の花であり、プロになるのは至難の業だと言われていた趣味であったが、いろいろな教室ができる中、社会から、
「受け入れられるかも知れない」
と思わせる事業も出てきた。
その一つに、
「小説家への道」
というものがある。
小説家になるためには、それまでであれば、手段は限られていた。
一つは、これは今でも一番の主流として残ってはいるが、出版社系の新人賞や文学賞を受賞することである。もちろん、それ以外にも新聞での募集や、歴史上でも有名な作家を輩出した市町村などが主催する、有名作家の名を拝した文学賞などの募集もあったりする。
そのような文学賞や新人賞に入選すれば、賞によっては、次回作を保証される場合もあったりする。そういう意味では受賞が登竜門となり、小説家への道が開けたりするものだ。
もう一つのパターンとしては、いわゆる、
「持ち込み原稿」
というものである。
出版社の編集長にアポイントを取り、原稿を持参するというやり方であるが、これはほぼ無理というものだ。いくら小説家志望が少ないとはいえ、一日に数人くらいは持ち込む原稿を持ってくる人がいる。編集者は自分の仕事でも手一杯なのに、そんな持ち込みの時間を割くことなどできるはずもない。下手をすると、持ち込みの際の時間さえ、実にもったいないと思っている編集者も少なくはないはずだ。
ほとんどの場合が、開封することもなく、そのままゴミ箱である。現代のように個人情報にうるさくないので、簡単にゴミ箱に捨てられていただろう。中にはそれを垣間見た、ネタ作りに窮しているセミプロ作家が、ゴミ箱から取り出し、自分の作品として売り出すということもなかったとは言えないだろう。
もちろん、そんなことを知らない持ち込み者は、似たような作品があるとしても、まさかそれが元は自分の作品だとは思っていないはずだ。編集者がちゃんと見てくれて、処分にもシュレッダーを使用してくれるものだと信じ込んでいることだろう。
つまりは、昔であれば、少々の努力では、プロへの道は本当いいばらの道であり、ほとんどの人は、すぐに挫折していたことだろう。
だが、バブルが弾けてからの趣味への趣向の激しさが、各業界の体勢を変えた。つまりは、小説家への道だけに限ったことではなく、他の道にも似たようなことが増えてきたと言ってもいいだろう。
趣味を模索する人たちが、ある程度落ち着いた頃くらいだっただろうか、新手の商法が現れた。小説家を目指す人に、光を当てるという意味で、結構話題にもなったりした。
小説家になるのにネックなのは、
「いくら小説をしっかり書いたとしても、読んでもらえない」
ということであった。
確かに有名出版社系の新人賞では、応募原稿を読まずにゴミ箱にポイ捨てなどということはないだろう。しかし、受賞までにはいくつもの審査があり、その都度、審査する人が違っている。
一次審査、二次審査、三次審査、最終選考くらいが一般的であろうか。雑誌に載っている応募要項には、審査員の写真や氏名が記されていることが多いが、それら有名作家が初めて応募作品に目を通すのは、最終選考だけの場合はほとんどである。
一次審査などは、いわゆる、
「下読みのプロ」
と呼ばれる人が読んでいる。
彼らは売れない作家だったり、アルバイトだったりで、一日にいくつもの応募作品を読まされる。選考基準としては、
「小説として体裁をなしているか?」
ということがほとんどで、読んでいて違和感がないか、あるいは誤字脱字がないか。あるいは同じ言葉を何度も使っていないかなどの基本的なところしか審査しない。
だから、いくら優秀な作品であっても、ちょっとした誤字があっただけで、その時点で落とされる。確かに小説家たるもの、誤字脱字はダメなのだろうが、審査の段階で、まずはそれだけしか見ないというのはいかがなものだろうか。そういう意味では、有名編集者の応募と言っても、あてになるものではないと言えるのではないだろうか。