潜在するもの
と、マトリョーシカ人形をイメージしたことで、これも執筆に役立つ材料になると思い、プロットの中の、題材の項目に、
「マトリョーシカ人形」
と書き込んだ。
反射的にその方向を見たはずなので、瞬時だったはずだ。それなのに、そこに見ることができるはずの人を認めることができなかった。
――あれ? 気のせいだったのか?
と思い、何を思ったか、店内を見渡した。
最初は、背筋に寒気が走るほどの気持ち悪さと不安な感覚に、まわりを見ると出気を落ち着かせようとしての行動だったのだが、実際に見てみると、今まで客は自分一人だと思っていたはずの店内で、人影を認めたのは、せっかく不安を払しょくしたと思った気持ちを見事に裏切ることになった。
そこには、一人の少年が座っていた。今まで見たことがない少年で、最初は小学生かと思ったが、よく見ると制服を着ていた。中学生であろうか。
「いらっしゃいませ」
と、アルバイトの主婦の人がお冷を持っていき、注文を伺っている。
少年はメニューを開いて、何も言わず、メニューを指差し、注文しているようだった。彼女が戻ってきてオーダーを通した後、
「知っている客?」
と聞くと、
「いいえ、私は見たことがないですね」
と言われたので、
「僕も初めて見るんだよ」
というと、
「この時間に常連さん以外というのも珍しいわね」
といい、相手が少年であることに触れることはなかった。
少し気にはなったが、自分には関係のないことなので、引き続き小説のプロットを考えていたが、次第にまた気になるようになってきた。少年は何か雑誌や本を読んでいるわけではなく、じっと背筋を伸ばしてその場に座っているだけだった。
――何を考えているんだろう?
一度気にしてしまうと、無視することができなくなり、
「何かあの子、気になるんだけどね」
というと、
「あの子?」
とアルバイトの主婦が頭をかしげて言うので、遠藤も訝しくなり、
「うん、中学生くらいなんじゃない?」
と言うと、
「何言ってるんですか。三十代くらいなんじゃないですか? 確かに様子は変だけど、ああいう客もいないわけではないですよ。きっと何か考え事をしているんじゃないですか?」
と言われた。
なるほど、三十代くらいの人であれば、雑誌や本を読むこともなく、コーヒーを飲みながら佇んでいる姿が想像できないわけではない。あくまでも中学生の少年だという意識でいたから、違和感があったのだろう。
もう一度、その客の方を振り返ると、さっき感じた中学生の雰囲気が、今は大学生くらいに感じた。さすがに彼女のいうように三十代という感じには見えないが、中学生と思っていた感覚とはだいぶ違っていて。その様子も違和感がなくなっていくのを感じた。
一番最初は、小学生のように見え、そして次の瞬間には中学生、そしてしばらくすると大学生に見えた。さらに違う人が見れば三十代だという。まるで自分が感じている時間と、その客がいる場所とでは時間の流れる早さが違っている。それこそ、今自分が書こうと思っている小説のプロットそのものではないか。
――プロットを創造しているから、こんな想像をしてしまったのだろうか?
この感覚を、
――まるで夢みたいだ――
と感じたとしても、それは無理もないことだ。
自分の都合よく想像できることを夢みたいだという表現しているに過ぎないのだが、本当に眠っている時に見る夢では見ることのできないものではないかと思う。普通であれば、こんなことはありえないと思うはずのことなので、潜在意識が見せるのが夢だとすれば、想像することはできたとしても、
「不可能なこと」
を夢に見るのはできないことである。
その感覚を遠藤はどう感じているだろうか。不思議なことと、不可能なこと、どこかで同じ感覚として一緒の発想の中に描いてしまっているのではないか。そう思うと、
「不思議なことは不可能なことなんだ」
という思いを抱いてしまった。
遠藤は自分のこの発想が奇抜であると思い、本当は違うかも知れないと思っていることも分かっている。
「だから、僕は小説を書いているのかも?」
夢の世界では決して表すことのできないものを、小説という形で表現する。
それが、遠藤の小説を書く意義ではないかと思っていた。
その客を見ながらであれば、自分のプロットが書けるような気がして。彼を気にしながら、パソコンのキーを叩き続けた。
「ギャー」
背後から断末魔の悲鳴に似た声が聞こえた。
静かで他に客もいないその店で急に聞こえたその声に驚いてしまった遠藤は、情けなくも振り向くのが怖かった。身体が硬直してしまって、動かすことができない。指がパソコンのキーに張り付いてしまったかのように外すことができなくなっていた。
その声は次第にこの店に与えた影響がどれほどのものなのか分かってくると、目の前にいるアルバイトの主婦の人がまったく微動だにしていないのに気付いた。
――僕のようにビックリして身体が硬直してしまい、動けなくなってしまったんだろうな――
と感じた。
動けないのは自分だけではないと思うと少し気が楽になったが、
――一体、この状態がいつまで続くのだろう?
と思い、再度身体を動かそうと試みると、今度は動かすことができた。
身体は思ったよりも軽く、逆に軽すぎていきすぎてしまうのではないかと思うほどになっていた。
だが、目の前のアルバイトの主婦は身体を動かすことができないようだ。完全に固まっているのだが、その様子はどうも尋常ではないようだ。
――彼女のまわりが、やけに暗いな――
電気がついていて、スポットで明かりが当たるようになっているはずなのに、明かりは当たっているのは分かったが、実際の彼女を照らしているわけではない。
反射もしない。しかも吸収しているようにも思えない。不思議な様子を見ていると、さらにビックリしたのは、最初なぜか分からなかったが、彼女は手にコーヒーサーバーで作ったコーヒーを入れる容器を持っていて、今まさにコーヒーグラスに注いでいるところだったのだが、勢いよく入っているはずのコーヒーが止まって見えたのだ。
それはレストランなどのショーケースにあるサンプルのようで、カチンカチンに固まっている様子だったのだ。それを見て、
――時間が止まってしまったんだ――
と感じたのは、遠藤独特の感性によるものだったのだが、その時はそんなことに気付く余裕もなかった。
時間が止まってしまったと思い、まわりを見ると、店全体が暗くなっていて、さっきの客のあたりがさらに暗く感じられた。
――どうやらさっきから感じていた彼の周辺の時間は、ここよりもずっと前から進んでいなかったのではないか?
と思えてきた。
自分がもしそのことに気付かなければ、この状態をどのように説明していいのか分からない。この状態でも十分に説明が困難なのだが、少なくとも時間の感覚がマヒしているように感じている今だからこそ、少年が奇声を挙げた理由に見当がつくかも知れないとも感じた。
少年はまるで発狂したかのような表情をしていた。これまで必死に何かを堪えていて、ついに我慢できなくなったのだろう。