潜在するもの
「深層心理を抉るような話であったり、潜在意識は潜在能力を引き出すような話であったり、僕は結構こういう話をするのが好きなので、これからも時間があれば、ご一緒したいと思うよ」
と教授は言った。
ラスト(私見が入ります)
それから少しして小説を書いていると、
――その日は最初から普段と何かが違う――
と感じられた。
窓が完全に締まっているのに、顔に風が当たって、観葉植物の葉が揺れているのを感じたからだ。
開店一番で店に来ることも珍しくないので、その日の一番乗りになることはその日に限ったことではない。普段であれば十分もしないうちに、商店街にブティックを開いているまだ三十代と思えるような若い店長が入ってくるのだが、その日は、姿を現す様子がなかった。
その代わり、見たことのない一人の男が、コーヒーを飲んでいた。その日の遠藤は、久しぶりに朝から執筆に夢中で、まわりがほとんど気になっていなかった。その人がいつからそこにいるのかも分かっておらず、帽子を目深にかぶったまま脱ごうとしない様子は、不気味さを感じさせた。
本棚にあるマンガを取ってきているようで、テーブルの上には数冊置かれていて、本人はそのうちの一冊を手に取って読んでいるようだった。しばらく見つめているとその男の雰囲気が次第に分かってくるようだった。
その男はまだ若く、十代くらいであろうか、しれほど大柄というわけではなく、むしろ小柄な雰囲気に見えた。帽子をかぶっているのでよくは分からないが、どうやら本を読みながら店内を見ているようだった。
背中を丸めて猫背であった。その様子を見ていると、他に客はいないこともあって、結構距離が離れているはずなのに、まるで近づいているように思えた。それもこっちから近づいているわけではなく、相手の方が近づいてくる感覚、まったく身動きがないのに、おかしな感覚だった。
「あの人、いつからいるんだい?」
と奥さんに耳打ちしたが、
「さっき来たばかりだよ」
と曖昧にしか答えなかったが、
「ばかり」
という言葉から、数十分は経っていないような気がした。
マンガを丁寧に読んでいる様子が手に取るように分かったが、挙動不審さは拭えない。まわりを気にしているように感じたが。他には誰もおらず、しかも遠藤の方をそれほど注視しているわけでもない。見ている限り、何事に対しても中途半端にしか見えてこないのだ。
その男がどんどん近づいているように見えてくると、その様子も分かるようになってくる。小刻みに身体が震えているのが分かる。
――寒いのかしら?
と思ったが、それほどの寒さがあるわけでもなかった。
むしろ蒸し暑さがあるくらいで、先ほどの正体不明の風が心地よく感じられたほどだった。
となると、その震えは寒さから来るものではなく、何かに覚えているから震えているのではないかと思えた。客などほとんどいないのに、まわりをキョロキョロと気にしている様子も納得できない。
だが、震えは感じたが、それ以外、彼には微動だにしないような雰囲気があった。もし震えていなかったら、凍り付いているのではないかと思うほどの雰囲気に、こっちが逆に凍り付くようなゾッとした思いが溢れてくるのだった。
彼の震えは寸分も狂いがなかった。同じタイミングでずっと震えている。しばらく気にしていたのだが、今度は不思議なことに、同じタイミングでずっと震えていたにも関わらず、自分が最初に感じた時と比べて、その震えのスピードがゆっくりになってきているのをいまさらながらに感じていた。
――まるで最初に比べればスローモーションを見ているようだ――
と感じた。
その時遠藤はふとこの間の教授のセリフを思い出した。
「店によって、時間が進むスピードが違う」
と言っていたっけ。
ただ、今回は同じ場所で時間が変わった時に感じる時間の進み方の違いだった。あの時に説明してくれた慣性の法則とは、明らかに理屈に適っていない。
――この状況はどう説明すればいいんだ?
と遠藤は考えたが、ふと感じたこととして、あくまでも閃きのレベルのことであるが、
「空間と時間のアンバランスな繋がり」
という発想であった。
緒方や教授との話を思い出しながら、遠藤は久しぶりに新作を考えていた。遠藤の頭の中には、
「場所によって、時間の流れ方が微妙に違っている」
ということだった。
最初は、もっと狭義の意味を考えていたが、時間の流れ方という漠然としたものに変わってきた。だが、最初の狭義な感覚を忘れたわけではなく、発想は頭の中に残っていたのだ。
その日は、朝から思ったより客が多く、午前中は入れ替わりのように、商店街の店長たちがやってきていた。普段は午後に姿を現す人も、この日は皆午前中にやってきていて、
――午後に商店街で会合でもあるのかも知れないな――
と思うほどだった。
ランチタイムはいつものごとくで、三時前くらいには落ち着いてきた。ランチタイムは確かに盛況だが、回転も早いので、ほぼ満席になることはなかった。そのおかげで遠藤がランチタイムを挟んで店で粘っていても、嫌な顔はされない。どれどころか、カウンターにいると、知っている人が横にきて話しかけてくれるので、せわしい中にも余計な気を遣わなくてもいいということで、遠藤の滞在が店にとってよかったということにもなっているのではないかと、都合よく勝手に思い込んでいた。
それでも、一時半くらいになると、ランチタイムも落ち着いてくる。ランチタイムの時間帯は午後三時まではやっているが、午後一時半を過ぎるとランチを食べにくる人はほとんどいない。こういう店なので、アフタヌーンティーを楽しむマダムが来るようなこともなく、落ち着いた時間が流れた。
朝一番から夜まで店にいることも最近は増えた。執筆がてら利用する店なので、執筆をして、休憩しての繰り返しになっている。そのおかげなのか、それこそ、朝から晩まで店に滞在している時は、時間があっという間に過ぎている。さすがにランチタイムに執筆することはないが、その時間帯は人間観察をしていた。いつもと変わらぬランチタイム。毎日淡々と過ぎていくように思えたが、観察するつもりで見ていると、微妙に違っている。
その日は、思ったよりも時間があっという間だったような気がするが、いつものように午後一時半くらいから人が落ち着いてくると、その後にランチタイムの時間を思い出すと、結構長かったような気がしたのだ。
いつもと違っていたと感じたのは、この微妙な違いが影響していたに違いない。
午後二時半くらいまでに客は引き上げてしまい、店にはスタッフと遠藤だけになった。遠藤はまた新作のプロットに取り掛かろうとパソコンを開いた。何も書かれていない真っ白な執筆の画面を見ていると、今度はなかなか時間が過ぎてくれないといういつもの、
「生みの苦しみ」
を感じていた。
すると、玄関の方からアルプスの羊が首に掛けている重たい鈴の音が聞こえたような気がして振り返った。重低音の響きが、何度か響き、次第に音が小さくなっていく。
――まるでマトリョーシカだな――