潜在するもの
「でも、僕は自分の考え方を口にすることで、それが教授の研究に役立ってくれればそれで嬉しいんです。いや、もっと本音をいうと、聞いてくれるだけで嬉しいんです。僕が考えているようなカルトな話というのは、なかなか普通の人の会話には受け入れられるものではないですからね。そういう意味では教授と知り合ったというのも、運命だったと言えるかも知れないですね」
と緒方は言った。
その言葉を聞きながら、遠藤もうんうんと頷いたが、最近、惰性の生活にずっと慣れ切っていたので、人と会話するのがこんなにも楽しいことだったのかということを、思い知らされた気がした。
教授と知り合って少しずつ自分の気持ちが氷解しているのを感じてはいたが。それが今まで感じたことのない、
「気持ちいい」
という感覚だということも分かってきた。
遠藤はこれまで彼女いない歴が年齢と同じだった。だが、彼は童貞ではない。ただの素人童貞だった。
アルバイトで生計を立てているので、頻繁に通うこともできないが、お気に入りの女の子がいるのも事実だった。彼女の前では結構本音が言えるのだが、どうして本音が言えるのかというと、
「遠藤さんと話していると、私、ついつい饒舌になるのよ。何でも話せちゃうって感じかしら」
と言ってくれたのが、身体を血液が逆流するほど嬉しく、これこそ新鮮な気持ちになれた。
もちろん、営業トークなのかも知れないと思ったが、自分が一番欲しかった言葉を言ってくれたのだ。自分でも気づいていない、
「一番言ってほしい」
と思っていたはずの言葉、それを普通に言ってくれたことが嬉しかった。
「君が気付かせてくれたんだね?」
と小さな来rで呟くと、
「えっ」
と彼女は分かっていない様子だったが。そのシチュエーションがまた嬉しくて、ウソかも知れないが、自分は相手に知らず知らず気持ちの奥を話させるそんな性格の持ち主ではないかと思ったのだ。
そして、彼女のその時の、
「何でも話せる気がする」
と言ってくれたセリフがどこか懐かしく、今まで感じたことがなかったはずなのに、デジャブを感じてしまったことに気付いたのだった。
実は、遠藤は今までに何度かデジャブを感じている。
それは大学を卒業してからがほとんどで、大学時代に新人賞を受賞した時よりも、大学を卒業した時の方が、自分としては人生の転換点としては大きかったような気がした。
――こんな気持ちになるから、新人賞を取った後、鳴かず飛ばずの作家人生を歩んできたのかも知れない――
と感じた。
自分が新人賞を断った作家だということは、緒方しか知らないことだろう。大学を卒業してからは、恥ずかしくて誰にも言えなかった。
「新人賞まで獲得したのに、今は何やってうるんだ」
と思われるのが怖かったのだ。
馴染みの喫茶店の常連さんも、店の人も、アルバイト先の人たちはもちろん、誰も知らないことだった。そういう意味で、ここで自分の過去を知っている緒方が現れたということは、これまでせっかく惰性とは言いながら、精神的に平和な人生を送ることができると思っている矢先のことなので、何としてもまわりに知られたくはないことだった。何とか時間を作って彼と二人きりになり、新人賞の話に緘口令を敷かなければならない。そう思った遠藤だった。
だが、そんな不安は必要ないようだった。
緒方は二人きりになることもなく、教授がトイレに席を立った隙を見て、しかもまわりに聞かれないように、耳打ちするように、
「新人賞の話はしないので、安心してればいいよ」
と言ってくれた。
「案ずるよりも生むがやすし」
分かってくれているようだった。
しかし、逆に、
――どうして分かったんだろう?
という危惧も残った。
どこか自分の素振りから分かったのだろうが、自分がそんな簡単に相手に気持ちを看破されてしまうような分かりやすい人間だということなのだろうか。遠藤はそれを思うと不気味な気もしたが、とりあえず、彼の言葉を鵜呑みにすることで、その場をやり過ごせることはできるようだった。
遠藤は今までどちらかというと、
「あいつは何を考えているのか分からない」
と言われてきた方だった。
最初はそれを自分の短所だとして、嫌な性格だと思っていた。
しかし、何を考えているのか分からないということは、それだけ人から余計な詮索を受けることはないということである。それは自分にとってありがたいと思ったのは、自分が小学生の頃、いじめられっ子だったからだ。
いじめられっ子というのは、なるべく相手を怒らせないようにしようと考えるものだ。こちらが変に抵抗して相手の意地悪感情を逆なでしてしまうことが分かっているからなのだが、やられている最中に抵抗しないなどということは自分の中ではありえなかった。どうしても、抵抗してしまうのは条件反射のようなもので、避けられないことだと思うと、抵抗しても、それ以上苛められないようにしなければいけないと本能が訴えていた。
そんな時、相手に自分の気持ちを訴えるような態度は却って逆効果だった。相手に自分が苛められたくないという思いを抱かせると、却って苛めたくなったりするだろうし、逆にこちらが抵抗の意志を示せば、相手もその抵抗に対して自分が攻撃しているという相手が苛めに対して正当性を感じる隙を与えてしまうことになり、これも逆効果であった。
そうなれば、こちらが何も考えていないというような発想を抱けば、相手はこちらに対してまるで、
「暖簾に腕押し」
のように、まったく無抵抗の者を苛めているという罪悪感にも苛まれ、ある程度満足してしまうと、自分がやるせない気分になってしまうことが嫌で、
「苛めはするが、満足感に近づく前にやめてくれるであろう」
という考えに至るのだった。
苛められながらでも、いじめられっ子はそれくらいのことを頭に描いて、必死にその状況を逃れたいと思っていた。
いじめられっ子が抵抗しないのはそういう意識があるからで、その意識を表面から見ていると、実にじれったく見えることだろう。
いじめられっ子が苛めっ子以外からも正当化されず、苛めに遭っていても誰も助けようとしない理由として、
「今度は自分が苛められる」
というのとは別に、いじめられっ子に対してのじれったさが感じられるからではないかと思うのだった。
こんな思いはいじめられっ子だった人間だけにしか分からないことだろう。苛めっ子にもそれを見ているだけのその他大勢も分かってはいない。だが、
「苛めを見て見ぬふりをしている人も同罪だ」
とよく言われるが、こういう発想から言えば、まさにその通りである。
ただ、苛めの問題は難しく、苛めっ子が完全な悪だという考え方で本当にいいのか、いじめられっ子だった自分には、そのことを考える資格はあるのではないかと遠藤は思っていた。
だが、このことを小説のネタにしようとは思わない。社会問題をテーマにするのは一番苦手だったからだ。しかも経験から書いてしまうと、どうしても偏見が先に立ってしまう。公平さという意味では損なわれるだろうか、考えることはいいとしても、文章として起こし、それを公開することはできないと思っていた。