潜在するもの
「奇妙なお話って、それ自体はジャンルとして薄い気がするんですよ。あくまでもホラーであったりミステリーであったり、SFであったりというジャンルの中で出来上がっていくものだって思っていたんですが、描いているうちに少し違っている気がしたんですね」
「というと」
「僕が思う奇妙なお話は、他のジャンルに近づいていくのではなく、奇妙なお話の修飾として他のジャンルが存在しているように思うんです。ただ奇妙な話は曖昧な感じですから、どうしても他のジャンルに寄ってしまう。そのバランスが難しい気がしますね」
「それは、絵を描く時のさっき言った二つ目のバランスというのとどこか接点があるような気がしますね」
「ええ、そういう意味で、今まで考えたことのなかった遠近感という感覚と、『光と影』を思い浮かべることで、僕の小説も膨らみを持つのではないかと思いました。さっきの話ではないですが、確かに別の芸術ではありますが、芸術という括りがある以上、接点はどこかにあって、ひょっとすると、そこには今まで知ることのできなかった『交わることのある平行線』のようなものを見つけることができるんじゃないかって思うようになりました」
と遠藤がいうと、
「それができるようになるとすごいですよね。僕も今までに考えたことのない発想で、こうやってお話ができたのも、何かの運命を感じます」
「平行線というと、どんなに行っても交わらないということですけど、僕は似たようなもので少し違う発想を持っているんですよ」
「どういうことですか?」
「これもいくつか似たような発想があるんですが、例えば、マトリョーシカ人形というのがあるんでしょう? それともう一つは、自分を中心に、前後あるいは左右に鏡を置いた時に見える自分の感覚とでもいうんでしょうか?」
「マトリョーシカ人形というと、人形の中にまた小さな人形が入っていて、その中にまた小さな人形が入っているというような感覚のものですよね?」
「ええ、そうです。どんどん小さくなっていく感覚でしょう? そして自分の前後や左右に鏡を置くと、そこに自分が写っていて。さらに反対側の鏡には、鏡に写っている自分が写っているという感覚ですね。これもどんどん小さくなっていきますよね?」
「確かにそうですよね。そういう意味では似ていると言えますね」
「そしてどんどん小さくなってはいくけど、決してなくなってしまうわけではない。これも不思議ですよね?」
「ええ、ゼロ以外のものは何で割ってもゼロにはならないという数学の考え方に似ていますよね。これも平行線が交わらない感覚に似ていると僕は思っているんです」
遠藤は自分の考えを語った。
「遠藤さんは数学にも造詣が深いんですか?」
「僕は奇妙なお話を書いているせいか、自分のジャンルに関わるような他のジャンルに対しても興味を持つようになったんだです。最初は少し違ったところからの発想であっても、入り込んでしまうと、そこからまるでアリの穴が広がっていくような発想から、まったく関係のないと思えるところが見えてくるような気がしてくるんですよ」
「なるほど、奇妙なお話を書いていて、SFだったり、ホラーに結びついてくるようなそんな感覚ですか?」
「ええ、そうです。一つのジャンルとして確立していてもしていなくても、僕にとっては完全にジャンルなんですよ」
「まるで、こうもりのようだ」
と、彼がまた奇妙なことを口にした。
「こうもり?」
「こうもりというのは、獣にも鳥にも似ているというところから、鳥にあったら自分を獣だといい、獣に遭ったら自分と鳥だといい、うまく世の中を乗り越えていく様を『強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者』という意味で、使われることもあったらしいんだ。おれは、一つのジャンルをその雰囲気からどんなジャンルにでも利用することのできる奇妙なお話というジャンルを、このオオカミのようなお話としてなぞらえられるんじゃないかって思ったんだ」
と彼はいう。
遠藤は、
――少し違う気もするが――
と思ったが、こうもりのような動物に例えられることも奇妙なお話にであれば、ありなのではないかと思えた。
遠藤は最近書いた小説の中で、天国と地獄をイメージして書いたものがあった。基本的には怖いものや嫌いなものはあまり小説には書いてこなかった。夢に見たりするからだ。
だが、最近ではそんな夢に出てきそうな話も書けるようになった。その理由としては、
「夢に出てくるのは、怖い夢ばかりだ」
という意識があったからだ。
だが、夢というのは夢であることが分かっている。だから、逆に夢で見たことは、小説に書くために見る夢であるということを意識するようになると、今度は夢自体を見ないようになってきた。
だが、これは夢を見ていないというわけではなく、実際には夢を見ているのだが、見たということを覚えていないというだけのことだった。夢を見ないということは、負かい眠りに就けていない証拠だということで、最近疲れているのかと思っていたが、ひょっとすると、夢を見る見ないということを、自分でコントロールできるようになっているのかも知れない。
夢が小説をコントロールしているのか、小説が夢をコントロールしているのか、遠藤には分からなかったが、夢と執筆には大いに何かが関わっているような気がして仕方がなかった。
夢をコントロールするというのは、制限を書けるという感覚に似ているかも知れない。平行線は交わることのないものであるという発想や、ゼロでないものを何で割っても、ゼロになるということがないという発想は、一種の制限の掛かった発想なのでかも知れないと思った。
夢というのも、いろいろと言われている。
「夢というのは潜在意識がなせるものだ」
というのも、その一つである。
夢だからと言って、実際に自分でできることしかできないという発想から生まれたものであり、空を飛ぶという夢は実際に見ることができず、飛び降りたりしたとしても、その時点で夢から覚めるようなメカニズムになっているのだろう。
そういえば、この時話題に上ったドッペルゲンガーというのも、本人の行動範囲にしか出現することはないというではないか。これはやはりもう一人の自分というのが、本人の潜在意識のなせるわざだと考えることができれば、これも夢に見たのと同じような感覚だと言ってもいいのかも知れない。
また、夢の中にもう一人の自分が出てきたことがあったが、今まで見た夢の中で一番怖いと思った夢は、もう一人の自分が出てくる夢だった。ドッペルゲンガーは言葉を話さないというが、言われてみれば、夢に出てくるもう一人の自分が何かを話したのを感じたことはなかった。
それよりも、夢に出てくる登場人物は言葉を発しないような気がする。主人公である自分すら声になって話をしていたのかどうか、それすら意識がない。
新人賞を受賞した作品はホラーだったが、どこがよかったのか、自分でもよく分かっていなかった。後から書いた他の作品の方が気に入っているものもあったり、受賞までに書いた作品の中で会心の作だと思っていたものもあった。自分が書きたいものと、世間に受け入れられるものとでは歴然とした差があるのかも知れない。