潜在するもの
「というよりも、そもそも短編というのは難しいと言われているんですよ。文字数が少ないということは、それだけ表現が制限されるからですね。私もそのことを自分で書けるようになってから痛感しました。今は長編も短編もどっちも書いていますが、短編を書いてからすぐに長編を書いたり、長編を書いてからすぐに短編は書けません。同じ小説と言っても、ジャンルの違いくらい、文字数の違いは大きなものだと私は感じています」
と遠藤は答えた。
「確かに俳句や短歌のように、文字数が最初から決まっているものに言葉を込めるというのは難しく、それだけでジャンルになっているわけですから、これは文字数に限らずですが、制限されているということは難しいということを示しているような気がしますね」
その言葉を聞いて、遠藤はハッとした気分になった。
「今、あなたがおっしゃった、『制限されている』という言葉ですが、僕が小説を完成させることができなかった頃、この言葉が頭の中に引っかかっていたような気がするんです。何に対しての制限だったのか、その時々でいろいろあったような気がするので、一つ一つを思う出すのは困難なのですが、制限があることが物事を難しくするという考え方は、確かにあったと思います」
と遠藤がいうと、
「それは絵に関しても同じなんですよ。遠藤さんは、絵画というものは、目の前にあるものを忠実に写し出すことだって思っていませんか?」
「ええ、そうじゃないんですか?」
「確かにその通りです。絵を描くという言葉に関してはそう受け取られることが多いと思います。でも、そうじゃなくて、絵を芸術の一環だと考えると、目の前のものを忠実に写し出すことだけが絵画だとは言えないと思うんですよ。時には新たなものを付け加えることもあれば、逆に大胆に省略することもある」
「あなたの場合はどうなんですか?」
「僕の場合は、まだまだ修行が足りないのか、新たなものを付け加えることはできませんが、大胆な省略くらいならできるような気がするんです。目の前のものと忠実に書くという意識さえなければ、できると思うんですよ。それが絵画におけるバランスであり、絵画の命ではないかとも思うんですよ」
彼の話はなかなか興味深いものだった。
もう少し、絵の話を聞いてみたい気がしていた。
「絵ってどうすれば描けるようになるんですか?7 小説をどうしたら書けるようになるかという質問はよく受けるんですが、絵画ではあまり聞かない気がするからですね」
「小説に比べて、絵画は感性の部分が強いのかも知れないですね。落書きのようなものでも、やっていれば、それなりに上手になることはできる。でも小説はそうではないでしょう?」
「ええ、小説は何かのきっかけがなければ、書き上げるまでにはいかないと思うんです。だから書きたいと思っている人のほとんどが、一作品も書くことができずに挫折してしまうんです」
「なるほど、子供の頃はよくマンガを自分でマネて描いてみたりしたことで、絵を描けるような気がしてきたものですが、小説の場合は、最初から自分にはできないという何かハードルを高くしてしまっているように思うんです。それが問題なのでしょうか?」
「そうだと思います。でも、僕も小説が書けるようになったんだから、絵を描くことだってできるような気がしたんですが、実際に描くことはできないでいるんですよ。自分では自己暗示のようなものではないかと思っているんですけどね」
「自己暗示というのは面白いですよね。できると思えばできたり、できないと思えば絶対にできないという感覚ですからね。そうでなければ、自己暗示とは呼ばない気がしますからね」
「その通りなんです。僕は絵を描けるようになったのも、理屈で説明できると思っています。描けなかった頃にはそんな理屈、想像もできませんでしたが、いくつかその理屈もあるんですよ」
「例えば?」
「一つは、遠近感ですね。そして次にはキャンバス上のバランス、そして、もう一つは一歩進んで、どこから描き始めるかということが大切なんじゃないかって、一番最初に感じました」
「なるほど」
「遠近感というのは大切なことで、よく絵描きの人が筆を立てて、自分の目の前に翳して、距離を測っているでしょう? それなんですが、立体感を表しているんですよね。そして、バランスというのは、例えば砂浜を描こうとした時、空と海のバランスをどれくらいにして描くかということが重要になってくる。この二つは僕の考えでは、『光と影』をいかに描くかということを示しているんじゃないかって思うんです。光があれば必ず影がある。影があるから立体感があるんですよね。それを思うと、遠近感とバランス、それが立体感を写し出し、『光と影』の世界を形成しているんだって思っています」
彼の話は、やはり想像していた以上に興味を引くものだった。
小説世界とは少し違っているようだが、明らかに違っているわけではなく、どこかに近い感覚があるのは分かった。
それにしても、彼の言った
「ないものを書き加える」
「大胆な省略」
という発想が、どこから来るのか、その時点ではよく分からなかった。
しかし、その二つを小説に置き換えてみると、自分が書いている小説にも生かせそうな気がするから不思議だった。
「なるほど、小説を書く上でも同じような発想があるのも事実なんだけど、小説の場合は、基本的には自分の思っていることをどう描いたとしても、それは自由だっていう発想があるので、ある意味却って難しいのかも知れないですね。前何かのテレビのインタビューで小説家の人が話しているのを聞いたんですが、インタビューの内容として、『以前、原稿依頼の中で、テーマを、『何を書いてもいい』って言われたんですよ。これって一番難しい話なんですよね。何を書いていいというのは、縛りがないから、逆に言い訳も利かない。後がないということでもあるんですよ』という内容だったんですが、その話を聞いて、なるほどと感心しましたね」
と遠藤がいうと、
「遠藤さんは、将棋や囲碁で、一番隙の無い手というのはどういう手だって思います?」
といきなり聞かれて、
「よく分からないですね」
と、本当は分かっていたが聞いてみた。
彼は、したり顔で話し始めた。
「一番隙の無い手というのは、最初に並べた手なんですよ。一手差すごとに隙が生まれるんです。面白いでしょう?」
「ええ、確かに」
「そこでさっきの三番目なんですが。絵画を描く時のポイントの話としてですね。どこから描き始めるかだって言いましたよね。ここに繋がってくるんです。僕の場合は左端から描いていくんですが、たぶんほとんどの人は同じだと思います。つまり、これも最初にどこに筆を落とすかで、ある程度作品に対しての思い入れは決まってしまっていると言っても過言ではない気がします。それは作品の良し悪しではなく、あくまでも作品への思い入れだと僕は思っているので、最初がすべてだとは言いませんけどね」
と言った。
――なるほど、ここに話が繋がっていくのか――
と考えた。
「話が前後しましたが、遠藤さんは、どんな奇妙なお話を書いているんですか? 少し興味がありますね」