潜在するもの
自分の中で一つのジャンルを確立することが、有名作家になる近道だと言われる時代になってきた。本格派小説というよりも、トリックを重視した話が多いような気がして、昔からの本格派小説が好きだった人は、ミステリーから離れて行ったのかも知れない。
遠藤は、それでも昔の小説家の話をよく読んでいた。一時期、トラベルミステリーなどを読んだ時代もあったが、それは読みやすいからだった。
自分が小説を書くようになってから読むようになったのだが、それは読みやすさというものを身に着けたいと思ったからだ。
昔の小説は本格的なだけに、文章的には文学的すぎて、読みやすさという点では少し厳しい気がする。
まだ小説を書き始めた頃は、
「読みやすい小説を書かなければ」
と思っていた。
実際に新人賞を取った作品は、ライトノベルとまではいかないが、読みやすさだけはミステリーの中ではライトノベルに近いくらいだと思うものだった。
本当であれば、本人としては納得のいく作品ではなかったが、少なくとも世間が認めてくれたということで、手放しに喜んでいいものだという意識から、
――俺は、こういう路線で行けばいいんだ――
と思ったほどだった。
しかし、次回作に望む時、
「これからが正念場」
と言われると、受賞作が一体なんだったのかと感じるようになった。
優秀な作品だから評価してもらったのであって、それ以上を求められると結構難しいと誰もが思うものだろう。確かに新人賞を取った作家が、次回作があまり売れずに、そのまま鳴かず飛ばずになってしまったというのはよく聞く話だった。受賞の報告を聞いた時、手放しで喜んだはずだったのに、なぜか、一抹の不安もあったような気がした。その不安がどこから来るものなのか分からなかったが、後から思えば、次回作以降、鳴かず飛ばすになってしまう自分を垣間見てしまったのではないかと思えたのだ。
実際にその時の想像通り、次回作は散々だった。小説評論家からは酷評を受け、
――もう作家としてやっていけないかも知れない――
と思ったほどだった。
毎月のようにいろいろな出版社から新人賞や文学賞が開催され、その都度新人作家が誕生する。生き残っていけるのはほんの一部であるのは分かっていたが、受賞するまでを最初のステップと思っていても、実際には、それをゴールだと感じてやらないと、新人賞などおぼつかないのかも知れないと思うと、小説家を目指すこと自体がジレンマのような気がするのだった。
遠藤は最近まで、新人賞を受賞してから、他の人の小説を読まないようにしていた。
「自分の作風がブレるから」
というのが理由であるが、もう一つ感じたのは、
「最近、物忘れが激しい気がする」
という思いからだった。
小説を書いていても、少し時間が経てば、何をどのように書いていたのか、まったく覚えていないことが多くなった。
だから、今は毎日書いているのだが、それでも昨日書いたことがどこまでだったのか、覚えていないことが多かったのだ。
だが、それは集中力の問題ではないだろうか。
小説を書いていると、二時間くらい集中して書いていても、一段落すると、数十分くらいしか経っていないような気になるからだった。
それだけ集中していて、小説世界に自分が入り込んでいるからで、逆に小説世界に入るということは、自分が経験したことがある世界しか、創造できないという弊害も含んでいた。
これも、小説家としてのジレンマのようなものだと思っている。
執筆するには、小説世界に入り込まないと書けないという思いがあり、書けるようになったのも、自分で小説世界を創造することができるからだと思った。しかし、その小説世界にも限界があり、自分が経験したことしか創造できないと感じたのは、きっと小説世界というのが、
「夢の世界と同じようなものだ」
と感じたからだろう。
夢の世界でも同じである。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
という話をよく聞くが、いくら夢であっても自分が創造できる世界でなければ見ることはできない。
ある夢で、空だって飛べるのではないかと考えたことがあり、
「どうせ夢の中だから」
と思って、断崖絶壁から飛び降りたことがあったが、その時は、一瞬にして目が覚めてしまい、
「やっぱり、夢だと空を飛ぶことはできないんだ」
という思いと、
「夢でよかった」
という思いが交錯した。
もし、夢でなければ、そのまま断崖から転落してしまい、即死だったに違いないからだった。
さらに夢の中で、空を飛ぼうと歩きながら飛ぼうとしたことがあったが、その時は宙に浮くことはできたが、思うように動くことはできなかった。まるで空中と言う海の中に飛び込んで、泳いでいるような不思議な感覚に陥ったのだ。
それは、
「人間は空を飛ぶことなどできない」
という当たり前のことを自分が信じているということであり、夢でもできるはずはないという思いがあるからだった。
それでも、夢と現実の違いとして、宙に浮くということで、何とか夢と現実の間に差別化を試みているのではないかと思ったからだった。
夢の世界と小説世界を結び付けて考えるようになったのは、文芸サークルに入ってからだった。
まだ一編の小説も書けなかった頃のことだったので、最後まで小説を書き終えることができるようになったきっかけというのが、
「夢の世界と小説世界の共有:
という意識があったからかも知れない。
夢というのは目が覚めてから覚えていないものが多い。特に楽しかった夢などほとんど覚えていない。怖い夢は覚えていることが多いので、最初の頃は、
「怖い夢しか見ることはできないんだ」
という意識だったくらいである。
だが、夢についての話は、文芸サークルに入ってから友達になった人とよくするようになった。
「俺にとって一番怖いと思った夢は、『もう一人の自分が出てきた時』だったような気がするんだ」
と、友達がいう。
「もう一人の自分?」
「ああ、さっきお前が言ったように、俺も覚えている夢というのは、そのほとんどが怖い夢ばかりなんだ、打方と言って、楽しかった夢をまったく覚えていないというわけではない、だから、楽しかった夢は見なかったのではなくて、覚えていないだけなんだって思うようになったんだ」
それを言われて、遠藤は少し考えて、
「俺は楽しかった夢を見たという記憶はあるような気がするんだけど、どんな夢なのかまったく記憶にないので、本当なら、楽しい夢なんか見ないと思ってもいいのかも知れないんだけど、実際には見ていなかったとはどうしても思えないんだ。今お前が言ったような結論に、結局は俺もなるのかも知れないな」
と答えた。
「夢って、目が覚める寸前の一瞬で見るっていう話を聞いたことがあるんだ」
と、彼は少し話を変えてきた。
「俺もどこかで聞いたことがあるような気がするな」
自分だけではなくこんな身近に同じ話を聞いたことがあるという人がいると思うと、信憑性はあるように思えるが、逆に身近過ぎて、偶然同じ人から聞いたというだけなのかも知れないと思えないこともないのではないだろうか。