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短編集81(過去作品)

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 その時も主人公は壁に耳を押し当てる自分、そして実際に感じているのはそれを見ている自分である。部屋には誰もおらず、薄暗くなった部屋で一人の男が壁に耳を押し当てているという異様な雰囲気だ。
 だが、第三者であるはずの見ている自分にも壁を通して声が聞こえてくるようだ。切なくも甘い声、一度も聞いたことがないくせにハッキリと聞こえてくる。いや、聞いたことが本当になかったのだろうか? 篭ったように押し殺した声、確かに記憶の奥に封印されたものの中にあるのを感じていた。
 声の高さは微妙に変わっている。いかにも悲鳴にも聞こえてきそうな黄色く甲高い声が聞こえたかと思うと、押し殺すような切ないハスキーな声だったりする。前者の方が印象的に感じのだろうが、きっと男としての本能は後者の方をより感じていて記憶の奥に封印するのではないだろうか。都筑はそう感じている。
 何かに集中している時は時間は感じないものだ。しかもすべてを耳に集中させているだけに、微動だにしない自分を見ているのも辛くなってくる。
 空気の重さを感じている。湿気を帯びて重たくなった空気、まるで潮風を感じているようだ。元々潮風に当たるとすぐに熱を出していた都筑には、湿気を帯びた重苦しい空気は苦手だった。
 押し殺した声が次第に糸を引き、静寂の中に消えていく。後に残ったのは耳鳴りだけで、普段と変わらない空気が戻ってきた。
 眠気が襲ってくる。
 夢を見ているはずなのに、眠気を感じるとはどういうことだろう? 重く湿った空気からの開放感がもたらしたものなのだろうか。夢から覚めたくないという思いがそこにあるのかも知れない。だがそんなわけにはいかない。いつかは夢は覚めないといけないものだと分かっている。
 光が次第に部屋の中に戻ってくる。
「あれ?」
 何かが違う。そこは明らかに自分の部屋であることは間違いない。だが、何となく狭さを感じるのはなぜだろう。自分の知っている部屋とは微妙に違っているのだ。配置が違っているわけではない。先ほどの重たい空気が残っているのだろうか?
「いや違う。誰かの気配を感じるのだ」
 誰もいないはずの部屋に、そしていつもは自分一人しかいないはずの部屋に、他の人の気配を感じたら、やはり部屋を狭く感じることだろう。
「そこにいるのは誰?」
 思わず声を掛けてみるが声になっていない。声になっていないことにホッとしているがホッとした瞬間に人の気配も感じなくなった。そこにいるのが誰だか何となく想像はついていたが、それが誰かを考える前に気配は消えていたのである。
 部屋の広さが元に戻り、明るさも戻ってきた。先ほどのような違和感はもうなく。完全に明るさが戻ったようだ。
――夢だったんだよな――
 思わず自問自答をしてしまう。夢から覚めても目の前に広がるのはいつもの自分の部屋である。聞き耳を立てられるような薄い壁のアパートなどではない。
 身体を起こしてみるが何か気持ち悪さを感じるのは、身体にへばりつくような大量の汗を掻いていたからである。元々寝汗の多い方なので枕元に着替えを置いている。着替えれば済むことだと思い身体を起こすが、かなしばりにあったかのような違和感が身体に走った。
 頭が真っ白になるとよく言われるが、今までそんな気持ちになったことはなかった。意識が朦朧とすることもあったが、真っ白になる感覚とはまた違う。予想しなかったことにぶち当たって砕けることもあったが、それも違っていた。小さい頃からいろいろなことを考えて過ごしてきたので、無意識に頭の中を真っ白にしないようにしているのかも知れない。
 こんな夢は稀である。
 覚えている夢というと大体が嫌な夢で、こんなおいしい夢を見ることなどない。しかもおいしい夢を見る時という時には、いつも誰かに見られているように思うのだ。おかしなもので、誰かの存在を感じるのは、目が覚める瞬間に感じているような気がして仕方がない。
 今までに自殺した夢を見たことがあった。薬を飲んで死ぬ夢だったのだが、睡眠薬では死にきれなかった時が恐いと感じ、どこから手に入れてきたのか分からない茶色いビンを手にしていた。
 一気に飲んでみるのも恐いもので、静かで目の前の電気スタンドがついただけの部屋で目の前にある白い粒を見つめている。喉をゴクンと鳴らし、目は自然に潤んでいる。きっと真っ赤に充血していることだろう。じっくりと見つめていると大きく見えたり小さく見えたり遠近感が定まらない。そんな時、誰もいないはずの部屋で流れるはずのない空気の流れを感じ、まわりを振り返ってみる。
――誰かが止めてくれようとしているのだろうか?
 自分の意志は完全に決まっているつもりだった。だが、風を感じただけで完全ではないことを思い知らされる。それだけ決意など、死というものを前にすれば無力なのだということを思い知らされた。
――これは夢なんだ――
 最初から分かっていたようにも思う。目が覚めてから大量の汗を感じた時、その日の夢が記憶の奥に封印されたことに気付く。
 死にたいと思ったことも何度かあった。どうすれば一番楽に死ねるか研究してみたこともあったが、なかなか想像のつくものではない。飛び降りや列車による轢死も考えたが、列車などで死ぬと鉄道会社への賠償などで、残った人に迷惑をかける。
「どうせ死ぬんだから、後の人のことなど気にする必要などない」
 心の奥から聞こえてくるが、自分が残されたものの立場になると、どうしてもそんなことはできない。
 では、楽そうに見える薬物や睡眠薬、ガスではどうだろう?
 確かに楽に死ねるかも知れないが、死にきれなかった時を考えると、これほど後遺症の残るものはない。薬物というのは副作用も含めて恐ろしいもので、睡眠薬などすぐに手に入るものへの誘惑も、考えれば恐ろしい。
 睡眠薬以外の薬物は簡単に手に入るものではないだろう。そう考えれば。死というものは簡単に考えてはいけないという戒めに感じられる。夢の中でも本当に死ねたかどうか分からない。寸前になって目を覚ましたからだ。
 夢の中でそれだけのことを考えたとは思えない。目が覚めるまでの間、完全に夢が封印されるまでの間にそれだけのことを考えたのだろう。夢というのは目が覚める寸前の数秒に見るというが、目が覚めるまでの少しの間でそれだけのことを考えたとしても不思議のないことではあるまいか。
 本を読むと眠くなる。読んでいた本を夢に見ることもある。自分が主人公なのだが、表から見ている自分は、本を読んでいる感覚が抜けないのか、主人公である自分があくまでも他人事のように見えている。
 疲れからの睡魔と、本を読んでいての睡魔とでは同じ疲れでも違うもののように思う。本の世界に入り込んでも違和感のない時、それは夢の世界を自分が作っているという自覚があるかないかなのかも知れない。本を読んで眠くなる時は、自らで夢の世界を形成しているという自覚があるに違いない。潜在意識の枠からはみ出して夢を見ることができるとすれば、想像力を生かしたところの本を読んで眠くなった時なのだろう。だからこそ、夢の世界は奥が深いとも言えるのだ。
作品名:短編集81(過去作品) 作家名:森本晃次