短編集81(過去作品)
「そう、おねえさんはどこかへ行ってしまいたいな。坊やには分からないわね」
また「坊や」と言われてしまった。だが、今度は却って、萎縮してしまいそうな自分に気付く。
おねえさんには萎縮しているのが分かっただろうか? ただパノラマ画面を見ながらこちらを見ようとはしなかった。その横顔をじっと見ていた都筑だが、顔立ちの中で、鼻の高さが印象的なのに気付いた。人の顔を覚えることが苦手な都筑も、この鼻のラインだけはきっと忘れないだろうと思うほど見つめていた。
都筑の美的感覚がこの時に形成されたのかも知れない。女性の横顔が気になるようになり、いつも鼻のラインを気にしていた。好きな女性はどんな人かと聞かれれば、言葉にできないまでも、あの時に感じた女性の鼻である。
――夢で見たことが好きな女性のタイプになるなんて――
と思ってみたが、夢も所詮は潜在意識の見せるもの。夢を見る以前に同じような気になる女性がいて、その人のことが頭から離れなかったので、夢に見たのだろう。まだ女性に興味のなかった頃に見たので気付かなかっただけで、ちょうど女性に興味を持ち始めたのが夢を見た時だったに違いない。そう考えると納得がいく。
その時の夢は今から思い出しても赤面してしまう。女性にどうして興味を持つようになったかを思い出していると、夢の中で、おねえさんの裸を想像していたのだ。じっと横顔を見つめながら視線を下に下ろしていくと、胸の膨らみにぶち当たる。服の上からの膨らみに思わず赤面してしまった都筑は、次の瞬間には、彼女を裸にしていた。実に鮮やかで一瞬の出来事だった。
見たこともないはずの女体だと思ったが、実はそうではない。といっても相手は母親なのだが、もちろん女性に興味などなく、母親の裸を見たからといって気になるわけでもないはずなのに、一度、見た姿がやたらと気になって、頭に残ってしまったのだ。スベスベの肌に、ほんのりと赤み掛かっていたのは覚えている。その時の母の顔が忘れられないと言った方が正解だろう。
普段からあまり表情に変化のない母は、おとなしいというイメージが焼きついていた。それは都筑だけの思いではなく、おそらく母を知っている人すべてがそうだったのではないかと思えてならない。厳格な父の影になってあまり表情を変えない母だったが、都筑には優しかった。時折怒ることもあったが、怒られて却って、
――違う表情もするんだ――
と安心させられるほどだった。
そんな母がその時にした表情。見られて明らかに怯えが走っていた。自分の子供に見られたくらいなのだから、一瞬ビックリしても怯えが走るまでもないはずだ。
――見られてしまった――
そんな言葉が口から出てきそうな狼狽ぶりは、見ちゃいけないと思う反面、目に焼き付けておきたいという気持ちにさせられた。きっとそんな母の顔は、もう二度と見ることはできないだろうと思えたからだ。
母は小刻みに震えていた。思わずあたりを見渡したのは何かを感じたからだろうか。まわりには誰もおらず、母が一人、部屋の隅で、脱いだものを拾い集め、それで必死に身体を隠している姿だった。
――綺麗だ――
母親の身体なのに、そんなことを感じた自分が不謹慎で、汚いもののように思えた。本当は、その時のことは忘れ去ってしまわなければならないのだろうが、母の怯えの中に見える、もちろん初めて見せる恥じらいの姿に、「オンナ」を感じてしまったのだ。きっと都筑が女性を意識するようになったきっかけがあるとすれば、その時だったのだろう。
「皆は、いつ女性を意識し始めたんだ?」
という、友達数人との会話でまさか、
「母の裸を見てからだ」
などと言えるはずもない。皆が一体どんな時なのか興味津々だった。
だが、ほとんど誰もハッキリと口にすることができない。そのうちに最初に言い出した友達が、
「何だ、皆もそうか。俺もそうだからハッキリと口にしてもらえば、どんなことであっても自分もそれと似たことだと思えるようになると思ったんだ」
自分に納得したいようだ。皆もその言葉を聞いて一様に大きく頷いている。同じことを考え、同じことで悩んでいたのかも知れない。自分だけではないんだ。そう思うと安心した反面、相変わらず消えることのない思いに、少しイライラが募り始めていたようだ。
夢の中では音が聞こえないものだ。耳鳴りのようなものを感じることができるが、それが果たして音を消すためのものなのか、元々ない音の代償のような存在なのか分かるものではない。
あれはいつ頃からだっただろう? やはり初めての入試ということで、気持ちの高ぶりが一番激しかった頃のことである。それまではまわりから聞こえてくる音に対してそれほどの嫌悪感がなかったが、ちょっとした音でも異常に気になるようになったのだ。
一番気になるのは人の話し声である。なるべく意識しないようにしていてもヒソヒソ話は気になってくる。図書館などで勉強することも多かったが、勉強室では静粛が義務付けられているために、話す人はヒソヒソ話となる。イライラするのは、そんな時だった。
人の声がこれほど気になるものだったのかと思ってしまうと、眠っている時に見る夢の中で、耳鳴りしか聞こえないはずなのに、人の声が小さく入っているように思う。それは一人ではなく複数だ。いかにもヒソヒソ話を思わせる。もちろん何を話しているのか分からない。自分のことを話しているように聞こえると感じる時もあれば、まるで地獄の底からの聞こえてくるかのように背中に悪寒が走る時もある。
果たして夢の中でそこまで感じるのか疑わしいが、起きゆく過程で少なくとも記憶がハッキリしてくる中で感じていることなのだろう。
だが、そんなヒソヒソ話が時々女性の声だけに変わることがある。それが複数なのか、一人の声がハウリングを起こしているのか分からないが、艶めかしい声で耳だけではなく身体全体の血を逆流されるかのような興奮を与えることがある。
「あまり露骨なのよりも、抑えようとして聞こえてくる方が、より興奮するんだぞ」
大学に入ってアパート住まいをしている友達から聞かされた。部屋の壁が薄いためか、隣から音が少し漏れてくるらしい。一度夜中に女性の感極まった声を聞いて、友達はその声が男女の営みの際にあげる女性の悦びの声であることを悟ったという。さすがにそれからは大きな声は聞こえてこないが、隣の部屋で繰り広げられる営みが終わったわけではない。時間がくれば静かに進行しているだけだ。
「だけど、声は漏れてくるんだよ。切ない声でね。それがまたいいんだ。我慢しながら押し殺している様子を想像していると、本当にたまらなくなってくるからな」
ハッキリは言わなかったが、きっと、壁に耳を押し当てるくらいのことはしているだろう。それがどれほどの興奮なのか、都筑にはすぐに理解できなかった。しかし話の内容のインパクトが強かったのは間違いなく、その日さっそく部屋の壁に耳を押し当て、必死に聞き取ろうとしている自分を見ていたのだ。
作品名:短編集81(過去作品) 作家名:森本晃次