短編集81(過去作品)
しかし情景描写こそ慣れである。普段から目の前の光景を見ながら文章にするというくせをつけておけば何とかなるものだ。喫茶店にいくことが好きだったのも文章を書くのに幸いした。喫茶店の窓から流れる情景をおもむろにノートに書き写すだけでいいのだ。後から読み直せば情景が浮かんでくる。一度見ているだけに、おかしければそこで添削できるというものだ。次第に文章にふくらみが出てきた。
小説を書く最初の大きなハードルは、「長い文章」である。最初の頃は原稿用紙を埋めるのが一番の苦労だった。だがそれも慣れと、喫茶店というシチュエーションが解決してくれた。その時に「書くこと」への違和感はなくなったのだ。
記憶の中にある田舎の風景、砂丘を思い浮かべる夕日の見える光景。なぜか真っ青だった海が印象的なのだが、とにかくそれを一番描きたいのだ。
だが、以前に見た絶景の描写を描くことができるようになっていたのだが、なぜか否かで見た光景だけは描くことができない。あれほど何度も見たにもかかわらずである。
いつも同じ光景で、今でも容易に想像できるにもかかわらず、どうしても描くことができないのだ。
――ひょっとして絵心があれば描けたかも知れない――
とも思う。小説を書くのはあくまでも想像力なのだろうが、絵画などの芸術はバランス感覚と美的感覚に由来するのが大きいだろう。記憶の中にある以上、バランス感覚さえあれば描けそうな気がする。それが文章であっても同じだ。絵画として描いた後で、じっくり文章に砕いていけばいいのだ。
そこに想像力が介在してくるのは否めない。文学とは想像力の芸術なのだ。忠実に描くことと、バランス感覚が命の絵画という芸術とは少し違う。
中西が小説を書くようになってから、想像力の中心は、田舎の風景だった。自分の記憶にあることが潜在意識となって現れる。夢の世界しかりである。
夢に見たことを小説で描きたいと考えるようになってからだろうか。記憶力の低下が著しくなった。元々記憶力のなさに苦しんでいたが、精神的にイライラするほどではなかった。どちらかというと性格的におおらかだったからかも知れない。田舎で育ったということも影響しているのだろうが、
――何かをやりたい――
と感じる「何か」が見つからなかったのも理由の一つだ。
小説を書くようになってから、今まで読んできた有名作家の作品への見方が少し変わってきた。今までは文章形態などを中心に読んできたが、実際に自分でも書けるようになると、ストーリー性に着目するようになっていた。
中西の好きな作家に辰巳高志という作家がいるが、彼の作品は幻想的な妄想に近い作品が多い。ストーリーは単純なのだが、最後の捻りが利いているためか、一度読んだだけでは理解に苦しむことがある。
――一度読んで、また最初から――
何度同じ作品を読んだことだろう。二、三度読んで、やっと作品の味を理解することができる。最初に読んだ時と、違う感覚に陥っていることも多く、それだけ作品に深みを感じるのだ。
――俺もこんな作品を書けたらな――
そう思いながら読み返す。
辰巳氏の作品は自然への描写から始まることが多い。育った環境なのだろうか、田舎の風景も多々ある。そこが中西にも共感できるところで、読みながら自分の育った環境を思い出せるのだ。
辰巳氏の作品は玄人好みの作品だ。ストーリー展開にしてもそうだし、描写にしても、少しリアルに描かれているところもあり、大衆文学としては、子供には見せられないと思っている親も多いことだろう。
だが、思春期の中西に辰巳氏の作品は大いに影響を与えた。
――男と女――
感情的にも肉体的にもこれほどリアルに感じさせるものはない。中西にそれができるほどの文章力があるわけでもなく、何よりもそこまで描けるほどの経験のないことが、一番辰巳氏に近づけない要因だと思っていた。
だが、経験などは月日が経てばそのうちにできるはずだ。中西はいつも辰巳氏が描いている男女の描写を頭に思い浮かべながら、来るべきその日を待ちわびているのだ。
決して気持ちでは焦っていない。だが、思春期の男性としては、頭で分かっていても身体がそれを理解できるほど大人になりきっていない。
――加奈子に読んでもらいたかったな――
人に読んでもらおうなどと思ったことのなかった中西は、時々加奈子に対してだけは、読んでほしかったと思う。それは加奈子と別れることで小説を書けるようになったのではないかと思っているからで、実に皮肉なことだと感じている。
中西は自分の中に、どうしても共存できないことがあることをその時に初めて知ったのだ。
二重人格や躁鬱症とはまた違った感覚である。何かを考えていて、それに対して同じ時間に違う自分がいるのが二重人格や躁鬱症だと思っている。中西自身でも自覚していることだ。だが、共存しえないことは、同じ時間で考えられることを、考えられない。何か壁のようなものがあって、そこから外を見ることができないのだ。
――二重人格のもう一人は意識しているのだろうか?
二重人格のもう一人はやはり自分である。時々、入れ替わることによって精神的に波が訪れる。それが躁鬱の片方だと思えば納得もいくというものだ。
自分に見えないものをもう一人の自分が見ている。まわりの人も自分を見ているようで実はもう一人の自分を見ているのかも知れない。そう思うと、加奈子との別れを思い出すことができそうだ。
「時々あなたが分からなくなるの」
そういえば、別れの一言はこんな言葉だった。
――時々、自分の中で入れ替わる――
そのことだけが頭に残った。今ここで考えている自分はどっちの自分なのだろう? ひょっとして躁状態の時の自分でも、欝状態の時の自分でもないのかも知れない。一番冷静に考えることができる自分の存在があるからこそ、躁鬱の状態に陥りやすいともいえるのではないだろうか。
冷静な精神状態の時に浮かんでくるのは、加奈子の顔だった。
――どうして別れちゃったんだろう――
今さらながらに後悔が襲ってくる。
里美を見ていると思い出す加奈子、加奈子の存在が中西の中で大きくなってくる。大きくなってくると瞼に浮かぶのは真っ青な海である。夕日がどんなに赤くとも、いつでも真っ青な海、それは何かの信念に基づいているように思えてならない。決して妥協を許さない心の持ち主にしか見えない青だとしたら、中西の中に妥協を許さない一面があるに違いない。
基本的にはすぐに妥協してしまう性格に思っていた。堅物だけでは生きていけないので、妥協することも大切だ。その場合は妥協とはいわず、歩み寄りに近いものだろう。歩みよりも相手を分かってでないとできないこと、そういう意味で考えたうえでの妥協は、悪いことではない。
「あなたには強情なところがあるものね」
里美に言われたことがあった。
「強情? そうかな?」
思わず聞き返したが、
「強情とは失礼だったかな? 信念が強いって言った方がいいかも知れないわね」
作品名:短編集81(過去作品) 作家名:森本晃次