短編集81(過去作品)
その時に聞いた信念という言葉、都合のいい曖昧な言葉に聞こえて仕方がなかったが、それも悪いことではない。強情であっても、何かを貫こうとしている時はそれくらいないといけないと思っている。小説を書き始めてからの中西には、特にその思いが強くなったようだ。
加奈子からはあまり言われたことがない。加奈子は物静かな方で、じっと黙ってそばにいるそんなタイプの女性だった。まわりの人にも人見知りしていて、きっと暗い女性だと皆から思われていたことだろう。
そんな女性が基本的には好きである。加奈子を初恋だと思っていたが、ひょっとして、小学生の頃に好きだった人がいたようにも思う。異性を気にすることがなかったので分からなかったが、小学生の頃の同じクラスに、加奈子に似た雰囲気の女性がいたのを思い出した。
いつも静かだった。どこにいても人の影に隠れて、誰にも分からない。意識して気配を消しているかのように思えるほどで、まるで石ころのような存在だった。中西にとっては却って気になったのだが、それが女性として見ていたわけではないので、それが今から思えば少し悔しい。
そんな彼女が自殺したという話を聞いたのは、加奈子と別れてすぐのことだった。別れのショックが尾を引いていたので、さらなるショックが追い撃ちをかけた。だが、そのおかげで感覚がある程度麻痺していったのかも知れない。ショックを感じなくなっていた。
加奈子と別れたことも自然だったんだと思えるようになったし、寂しさは残ったが、女性を追いかけたりするような気持ちにはなれなかった。
それがよかったのだろう。だからこそ里美という女性に出会えたのだし、小学生時代に好きだった女性が引き合わせてくれたように思う。加奈子のイメージを持っているというよりも、どちらかというと小学生の頃に気になっていた女性の面影を追い求めた結果が、似ている女性に出会えたのだ。
里美と知り合って思い出した。丘の上にいた男と話をしたことである。それまで男が丘の上から海を眺めていたのを覚えていたが、彼とどんな話をしたかなど忘れていた。意識して忘れていたというよりも、男の魔力に掛かったように思えてならない。
見ているだけで吸い寄せられそうな真っ青だった海、そこに小さな波が小刻みに規則正しく並んでいる。その光景が砂丘を思わせる。だが、砂丘に感じる色は真っ赤である。真っ赤と真っ青、まったく違った二つの色をお互いに感じさせる思いはどこから来るのだろう。
「決して同じ時間に存在してはいけないものを見てしまったんだよ」
これが石ころのような存在の男の言葉だった。忘れていたのは、理解できなかったからかも知れない。
それが中西にとって里美と加奈子であった。そう感じるのは、男の表情が寂しさとやるせなさを含んでいたように感じるからだ。
今中西は石ころのような存在だった男の表情をハッキリ思い出していた。どこかで出会ったことがあるように思えるのは、あまりにも鏡に写る自分に似ていたからだ。
「決して同じ時間に存在してはいけないものを見てしまったんだよ」
その言葉は中西自身に向けられた言葉だ。ということは石ころのような男、それは中西自身なのか?
いや、自分でないことはハッキリと分かっていた。
――タイムパラドックス――
そこに現れたのは、その時代にいてはいけない人、そして中西に限りなく近い人物だったに違いない。何かを忠告に現れたのか、中西には分からなかった。
だが、男の存在を意識しているだけで、中西の中にある想像力が大きなものになってきた。小説家として生きていく自信がついたのがその時である。
里美は中西にとってなくてはならない存在になった。里美を手放すことはないだろう。それも加奈子という女性がいたからだ。加奈子の存在も中西の中で永遠に封印された存在となったのだ。
石ころのような男にとって歴史の一ページを作れなかったという悔しさが、今そのまま中西の中に芽生えようとしている。それが中西に小説を書かせる原動力となったのだ。
そしてその後、中西は自分が未来に現れるというストーリーの小説を書くことで、作家としての自分を確立することができたのだった……。
( 完 )
作品名:短編集81(過去作品) 作家名:森本晃次