生と死のジレンマ
「俺は自分がマゾヒストだと思っているので、お互いに相性はバッチリだったと思うんだよ。だから引いたりはしなかったが、引く代わりに、この関係は長くは続かないと思ったよ」
「それを彼女の方では?」
「きっと分かったんじゃないかな? ことが終わって話をした時、自分がサディズムであることを分かっているって言ってたからな。そしてその性癖の酷さで、自分とあまり長続きする男性はいないと言っていた」
「そうなんですえ」
「ああ、彼女は自分から男性に言い寄ることはないんだ。いつも相手から寄ってくる。しかもそのほとんどは相手に蹂躙されて、俺がしたようにほとんど犯されるような状態になるというんだ。だから最初はそんな自分が嫌で嫌で仕方がなかったんだって」
「ひょっとして、彼女は今までにも似たようなことがこの病院であったんじゃないですか?」
「ああ、あったんだよ。しかも、俺も彼女に襲い掛かる前に、同じように同部屋で入院していたやつから、彼女のこういう話を聞いていたんだ」
「それで火が付いたというわけですか?」
「興味が深まったのは事実さ。しかし話には聞いていても、実際にやるとなると、度胸もいるし、下手をすれば、手が後ろに回りかねない。何しろ相手がいることだからな。半ば強引に相手を蹂躙するんだから、本当であれば犯罪さ。それを行おうとするには、それなりの覚悟がいるというものさ」
「あなたにはその勇気が」
「実はあったわけではないんだ。ただ、二人きりで静かな部屋にいると、ムラムラとした気分になったのも事実で、しかもその時にm話に聞いていた情景が思い浮かんできた。絶対に二人きりになったら思い浮かべてはいけないと自分に言い聞かせていたにも関わらずだよ」
と言って、彼はタバコに火をつけた。
矢久保はその話を聞きながら、自分がこれからどうしていいのか考えた。
「あなたは、どうして僕にこの話を? 僕にも自分たちと同じ思いをさせたいという気持ちですか?」
「いや、そうじゃないんだ。これは俺のためでも君のためでもない。彼女のためなんだ」
と言って、うまそうにタバコを燻らせた。
「どういうことですか?」
「きっと彼女は男を求めていないといけない身体なんじゃないかって思うんだ。しかも、それが強すぎて相手の男は彼女にすぐに飽きたり怖がったりするので長続きはしない」
「でも、それはそれで悪いことなんでしょうか?」
「そうなんだよ。俺は決して悪いことには思えない。むしろ勝手な言い分ではあるが、世の中の仕組みの営みのようなものを感じるくらいなんだ。この関係をどう表現していいのか分からないが、それ以上でもそれ以下でもない気がしてね」
と彼はそこまでいうと、せっかく付けたタバコを揉み消した。
彼は続ける。
「でも、彼女のそんな性癖はどこかで終わりが来ると思うんだ。それはきっと彼女のその性癖を終わらせることができる男性が現れることで実現することではないかって思っているんだけどね」
「今までにはいなかったと?」
「ああ、なぜか彼女の近くにいるのは、皆似たような性格の男性ばかりで、彼女を満足させられる人はいなかった。ただその満足というのは性的、肉体的な満足ではなく、もちろんそれも含めた精神的な満足を与えてやれる相手ということだね」
「ということは、すぐに飽きたり怖くなったりするだけではなく、彼女をそのまま受け入れられて、恒久に愛を与えられる相手ということでしょうか?」
「ああ、そうなんだ。お前はなかなか言葉の使い方がうまいな。まさにその通りなんだよ。俺たちにできなかった満足感をお前なら与えられるような気がしてな」
「買いかぶりではないですか?」
「いや、俺はお前に託したいんだ」
それが先日の話だったのだが、矢久保はその時の話がついこの間だったにも関わらず、かなり昔にした話のように思えていた
それでいて思い出してみると、
「まるで昨日のことのようだ」
というような感覚に陥った。
いよいよ彼から託された思いを達成できる日が来たのだったが、なぜかその時の矢久保にはおじけづいたような気持ちがあったのも事実だった。
――俺がおじけづくなんて――
それは、彼の生々しい話の時には想像がついた情景が、いざ自分のこととなると、まったく浮かんでこなかったからだ。
それが本当だとは思うのだが、まったく想像も妄想もできないことに対して不安しかなく、これからしようとしていることが犯罪であるという事実しか頭の中に浮かんでこなかった。
――本当にいいのか?
躊躇いとはこんな気持ちをいうのだということを久しぶりに感じたのだ。
その日を計画に選んだのは、彼女のパートナーと言える女性が意外と鈍いところがあり、しかも、見てみぬふりができる性格であるということが分かっていたからだ。しかも、そのことは他の入院患者からも聞いていた話なので、タイミングとしてはその時しかないのだった。
しかも、その日は満月で、部屋の明かりをつけずとも、目が慣れてくると十分だと思えたからだ。行動を起こすにはもって来いのタイミングで、気持ちを高ぶらせるにもちょうどよかった。
満月というと、オオカミ男の伝説にもあるように、何かが起こる時でもある。月というものが潮の満ち引きに関係があるように、人間の真理にも大いなる影響を与えるに違いない。
そんな理屈を知る由もない矢久保だったが、彼には彼なりのロマンのようなものがあった。これは理屈ではなく、普段から本能で生きているような人間独特の感性のようなものではないかと思えた。その日の彼は昼間から少しおかしくはあったが、それを分かる人は誰もいないと、矢久保は思っていた。
典子がやってくるのは足音を聞いただけでも分かる。入院して最初の頃には、少しは分かったが、その的中率は三分の一にも満たなかったのだが、さすがに毎回集中して耳を澄ませていれば、今ではほぼ満点に近いだけの的中率を誇っていた。他の入院患者と当てっこをしてみたが、
「どうして分かるんだ?」
とまわりから言われるほどの精錬された的中率に、矢久保は有頂天になっていた。
「典ちゃんの足音は、特徴らしいものは何もなく、一番分かりにくい」
と皆が言っていたが、これは逆の理論でもあった。
――一番目立たないから、逆に目立つんだよ――
と心の中でほくそ笑んだ。
学はないが、こういう「知恵的」な発想には長けたところがあった。これもきっと本能の赴くままという性格が影響しているのだろう。
この日も矢久保は午後九時の消灯時間にはさっさと電気を消して、大人しくしていた。大人しくしていたと言っても、これから起こるであろう出来事、まるで他人事のようだが、自分で挽き起こすという感覚は矢久保にはなく、他人事だと思うことが彼にとっての「覚悟」であったのだ。
典子はいつものように懐中電灯を片手に見回りをしていた。
すでにこの頃になると、足音の気配と大きさだけで、どこまで彼女が近づいてきたのかということも分かるようになってきた。
――二つ隣の大部屋に入ったな――
と思った当たりから、彼女がその部屋の確認に五分ほど費やし、隣の部屋は今は誰もいないことから、今が実質的な隣の部屋だと思うと、柄にもなく緊張してしまった。