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生と死のジレンマ

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 矢久保は、シーンとした静寂の中で、真っ暗ともいえない状態の中に、星の瞬きが差し込んでくる中で、シーツがこすれ合いながら、必死に抵抗する女の囁くような声と、必死になって相手を羽交い絞めにしている男の吐息とが、湿った空気によって流れてくるような感覚を覚えた。
 もちろん、部屋はこの部屋である。まさしく目の前で語っている男のベッドの上で、どれくらい前になるのか分からないが紛れもなく繰り広げられた愛情絵巻を想像させられた。
――いや、愛憎絵巻なのでは?
 とも思ったが、愛憎にはどうしても思えなかった。
 彼が自慢げに語るのであれば、彼が最初から出まかせを言っていない限りは、そのほとんどに信憑性を感じることができるからだ。
 吐息は次第に荒くなってきて、目は血走っている。充血していてもいいだろう。そんな状態で抵抗を続けるには限界がある。いくら看護婦が力が強いとはいえ、逆に諦めも早い気がする。すぐに冷静になり、
――下手に騒ぎ立てるよりも、この状態を一刻も早く終わらせればそれでいいんだ―― と思うのではないだろうか。
 覚悟さえ決めてしまえば、彼女たちは強い。こちらが相手を征服しているつもりになっているとすれば、敢えてその気にさせておいてさえいれば、相手はこちらの言いなりで、ことを早く終わらせることもできると考えたとしても、無理はないだろう。
 普通の女の子であれば、そうもいかないだろうが、ここは病院、ただでさえ気持ちが弱くなっている患者と、その患者に絶えず寄り添っている看護婦との関係である。普通の男女関係とは程遠いものがあるに違いない。
 ただ、矢久保は普通の男女の恋愛を知らない。彼にあるのは母親との異常性欲、二匹の獣が愛情もなく惹かれあったという醜い事実。それだけだったのだ。
「俺って、他の人とは明らかに違うよな」
 と思っていた。
 そんなことを想いながら、典子の顔を思い浮かべた。
――もし、その場に誰か他の人がいたらどうだっただろう?
 とふと思った。
 普通なら恥ずかしさから、
「見ないで」
 と言って、恥じらうか、それ以上にリアルな感覚で、
「助けて」
 と言って、なりふり構わず助けを求めるかのどちらかだろうが、典子の場合は前者だと思った。
 ただ、前者の場合は、本当に恥ずかしさからの行動である場合と、「あざとい」行動である場合の二つが考えられると思った。
 つまりは、恥ずかしがりながら、
「見ないで」
 というのは建前で、本当は、
「見て」
 と訴えているように思えた。
 それは、マゾヒストな考えであるが、その思いは矢久保の中に確かに存在していた。その思いを矢久保はウスウス感じていたように思う。矢久保は母親との異常性行為の中で、二人しかいない状況の中で、絶えず誰かの目を感じていたのを思い出していた。
――誰もいるはずなんかないのに――
 という思いが強く、それでもまわりを気にしている自分に対し、
――俺っておかしいんじゃないか?
 と感じていた。
 もっとも、こんな行為自体がおかしなものであることは分かっていたので、異常な感情を抱くことはいまさらのように思っていた。だから、いつも一瞬自分がおかしいと思ったとしても、次の瞬間には打ち消している自分がいる。
 そういえば、矢久保は毎日のように母親と関係を結んでいたが、矢久保が自分から望んだことは一度もなかった。ただ、抗うこともなく、完全に相手の言いなりだった。
「何をされても、それは自分が望んだこと」
 という気持ちが強く、抗うことは自分を否定することのように感じたのだ。
 異常性癖を嫌だと思うこともあった。
――今日はしたくない――
 と思うような気分になるのが増えてきたのも事実だった。
 しかし、それを母親は許さない。
――この人は、俺のように嫌になることってないんだろうか?
 と思ったが、最初は本当に嫌になることはないと思った。
 だが、一緒にいると、明らかに相手が手抜きをしているのが分かるのだが、それを指摘でもしようものなら、ヒステリックになり、何をされるか分からなかった。
「お仕置き」
 という名の元、本当に恥ずかしいと思えるようなことをされたこともあったからだ。
 矢久保が母親との行為の中で、本当に恥ずかしいと思うようなことは稀だった。そう思うということは、やはり自分を否定することだと思っていたからで、いつもであれば行為が終わった後はまるで何事もなかったかのような生活に戻るのだが、その時だけはそうもいかなかった。
 気が付けば母親を凝視していて、
「何見てるのよ」
 と叱責され、ハッとするのだった。
 この時の花親の顔は二度と見たくないと思うほどに冷淡なもので、本当に何を考えているのか分からないと言った感じであった。この母親の顔を見てしまったことで、
――この人が本当に分からない――
 という思いにさせられた。
 この思いは今でも持っていて、他の人にも同じように感じることもあるが、あくまでもそれは他人事であって。関係の切れた母親であっても、まだ心のどこかで、
「他人ではない」
 と思っている自分がいて、それを矢久保は誰のせいにしていいのか分からずに、悶々とする時間がたまにあったのだ。
 母親との関係と、典子への思いはまったく違ったものであり、その気持ちがあるにも関わらず、結局、肉体関係になってしまってからは、やることは変わらないという思いがあることを恥ずかしく思っていた。
 そんな中で、矢久保が入院患者からの話で典子とのいわゆる「性交」についての話はある意味新鮮に感じられるのは、そういった気持ちの表れからなのかも知れない。
 彼の話は、性交の前兆としては、さほど矢久保を興奮させるものではなかった。今まで経験したことはないとは言いながら、矢久保の想定内のことだったからである。もちろん、抵抗されることもそうだし、相手が覚悟を決めてから、自分に言い寄ってくるかのようにしな垂れてくる様子も、妄想しようと思えばいくらでもできたのだ。
「典子って女は、結構なものだぜ」
 と、完全に相手が自分の話に酔っていると感じている口調だったが、それを、
「はいはい」
 と思って聞いている矢久保も、相当な「役者」だともいえるだろう。
 矢久保が興味を引いたのは、その後の話だった。
「典子は、ああ見えて、結構なサディズムでな」
 と言い出した。
「サディズムって、そんなに積極的なの?」
 と、初めて矢久保が聞き返したのだが、相手はそれが初めてだとは思っていなかったかのように、意識もせずに話を続ける。
 それだけ彼は自分の話に酔うタイプの男性だったのだろう。
「ああ、あいつはどんなに恥ずかしいことでもやってのけるんだ。それだけを聞くと、逆にマゾヒストなんじゃないかって思うんじゃないか?」
「うん」
「しかしな、マゾヒストにも限界があるんじゃないかって俺は思っていたんだ。しかし、彼女には限界がない。こちらが遠慮してしまうほどになっているのに、それじゃダメっていうんだ。こっちが引いてしまうくらいにな」
「引いてしまったんですか?」
作品名:生と死のジレンマ 作家名:森本晃次