生と死のジレンマ
初めての「間違い」が起こったのは入院から数日が過ぎた夜のことだった。病室は二人部屋で、ちょうど昨日の昼に、一人が退院していったことで、この部屋を矢久保が占有することができるようになった。
一緒に入院していた人は結構な饒舌で、二人きりの時にはいろいろな話をしていた。
と言っても、もっぱら話題を振るのは相手からのことで、ほとんどは話に相槌を打つだけのことだった。
もう一人の入院者は年齢が三十過ぎくらいだったのではなかったか、戦争に召集された時の話が結構多く、戦場での生々しい話や、大陸の面白い話などをしてくれた。国内にいて、まだ学校を卒業して間がない彼にとっては、新鮮でありながら、生々しさが時として聞いていて、病気を進行させてしまうのではないかと思うほど、見えない力に痛めつけられているような錯覚に及んだものだった。
そんな中で、彼から聞いたオンナとの生々しい情景は、矢久保の中で想像を絶するものに感じられ、その様子を見て話し手も面白がって、余計に誇張して話したものだったが、それは決してリアルな生々しさに彼がその都度感動していたわけではなかった。
話し手に、矢久保の過去が分かるわけもなく、話し下手の彼を見ていると、余計に苛めたくなる苛めっ子の気分になっていたようだ。
実際にこの男性は、相手の反応を見て、それを面白がるという性癖があるようで、入院中の退屈な毎日のほとんどを矢久保との話に費やしていたのも分かるというものだ。
しかも、彼には話を継続させるだけの経験の豊富さと、誇張して話すだけの話術があった。矢久保のようなほとんど人と話をしたことのない少年には奇抜であったが、これほど興味深い人もいなかったのだ。
「大丈夫ですか?」
話をしていて、これでもかとばかりにまくし立てる相手に対して、冷静にそういう矢久保の姿もあったくらい、彼の話が佳境に向かえば向かうほど、矢久保は冷静になっていた。
それは彼が、
「他の人と同じでは嫌だ」
という性格を持っているからにほかならず、矢久保にとってこの男性は、自分と違うところがあると思いながらも、似たところもあるように思えてきて、それがどこなのか、話を聞きながらいつも探していた。
――どこか似ているところがあるのは間違いないんだけど、それが一体どういうところなのか自分では分からない――
と感じていた。
矢久保という男は自分の気持ちを表に出すことが苦手で、そのわりにまわりには分かりやすい性格らしい。前者の表に出しにくい性格というのは、母親と関係してから母親との環境の中で育まれてきたものであり、後者のまわりには分かりやすいという性格は、持って生まれた性格に違いなかった。
そのことを、矢久保は自覚しているつもりだった。自己分析が苦手だと思っている矢久保だったが、ところどころ正確に自分を捉えていて、そのわりに自分を信じられないという性格は、どこか自虐的なところがある性格を生み出しているかのようだった。
彼は矢久保が恋愛に対しては従順だと思っていたので、性に対しても純真無垢だと思っていた。もちろん童貞で、女性の身体など知っているわけもないと思っていたので、女性の身体についても、いかにも童貞の男の子が初めて聞かされるような話をして、興味をそそってその様子を見ながら楽しもうと目論んでいたのだ。
矢久保は敢えて、自分が経験のあることや、性癖が傾倒していることを口にせずに、いかにもまだ童貞で彼の思っているような性に対して純真無垢な少年を演じて見せた。だから相手も矢久保がまさかそんな性癖を持っているなど思ってもおらず、性に対して興味が湧くような話を延々と聞かせていた。
矢久保はそれを黙って聞いている。時々興味津々な表情を浮かべることで、相手の自尊心をくすぐり、もっと話を引き出そうとさえした。彼もこのような下ネタ系の話は嫌いではなく、その時に頭に浮かべたのは、自分が架空の女性と愛し合っているノーマルな光景であろうか、それとも過去に母親から受けた「施し」という名の、愛情もどきであっただろうか。きっとその時々で感じ方も違っていたのかも知れない。
話がそのうちに、典子のことになっていった。
「あの宮崎典子という看護婦だけどな」
と、話が典子に向いた時、それまでのわざとらしい興味津々の表情とは明らかに違う、本心からの興味を帯びた表情になったことを、話し手である相手に看破できたことであろうか。
相手は自分の話に十分酔っていたし、これからは実際の女性をリアルに弄った話をしようと思っているので、相手の表情の変化にまで気付いていたのかどうか、怪しいものだった。
最初はそれまで同様に矢久保は口出しをまったくしないようにしようと思った。自分が典子に興味を持っていることを知られるのは一番嫌だと思っていたからだ。
嫌だと思った理由の一番は、もちろん恥ずかしいという思いがあったからだ。
――女との話に恥ずかしいなどと思うなんて、今までにはなかったことだ――
と感じた。
母親との情事を誰にも話したことはなく、
――この話は墓場まで持っているべき内容の話なんだ――
という思いは持っていた。
それだけに、自分の内面に羞恥の気持ちを抱いていれば十分だと思っていて、敢えてまわりに自分が恥ずかしがっているという思いを伝える必要などないと思っていた。恥ずかしさをあざとさと感じているのは、異常性欲に自分が塗れていたからであり、他の人はあまり考えることはないと思っていた。
矢久保は、
――異常性欲などというのは「まやかし」で、実際には他の人にはあるものではなく、自分の母親と自分だけが異常なだけだったんだ――
と思っていた。
それだけまわりのことを分かっておらず。分かる気もなく、まわりとの接触をなるべく抑えたいと思っていた。それはまわりのことを知るのが怖かったからで、その思いは過剰な異常性欲から生まれた感情だと思っていたのだ。
典子の名前に反応した矢久保は、彼が何を語るのか大いに興味があった。
――この二人、関係があったのかも知れないな――
と勝手に想像してみた。
しかし、どこで経験があったというのだろう? もしあったとすれば、自分がこの病室に入ってくるまで、一人部屋としてこの部屋を占有していた時であろうか。もしそうだとすれば、想像は妄想になって矢久保の血を逆流させていた。
――こんな気分になるなんて――
今まで自分に関わることにだけしか、性的感情を感じたことなどなかったのに、この感情がどこからくるのか、まったく分からなかったのだ。
彼はゆっくりと話を続けた。
「典子ちゃんって、最初は結構抵抗が強かったんだよ。まるで男のような力強さでな。やっぱり看護婦って力が強くなければできない仕事なんだろうなとも思ったが、俺なんか、抵抗されればされるほど燃えるので、きっと彼女を羽交い絞めにながら、ニヤニヤとニヤついていたに違いないんだ」
と言って、それまで見せたことのない淫蕩な表情を見せた。