生と死のジレンマ
だが、完全にちゃぶ台をひっくり返されてしまったような精神状態に、付き離された自分がどうすればいいのか、途方に暮れていた。だが、彼はすでに生まれながらに免疫を持っていたようで、すぐに立ち直っていた。
そして、立ち直ってから感じたのは、
「寂しさ」
だった。
この寂しさは今までに感じたことのないもので、孤独と背中合わせであることにそのうちに気付くようになるのだが、それが世間一般の少年が感じる感覚であるということに気付いたのは、母親がいきなりどんでん返しを食らわしたからだということは実に皮肉なことだった。
寂しさは、人恋しさであり、先に知ってしまった女性の身体を求めてしまう矢久保であったが、今度は一緒に癒しも求めた。それは母親に感じていた癒しではないことは、矢久保も何となくであるが分かるようになっていた。
矢久保に対して優しさとは何か、そのことは誰に教えてもらうわけではなく、自分で悟るしかない。しかし、きっかけを与えるのは自分ではなく他人、そんな女性が現れるかどうかが問題だった。
人間としてどうなんだろうと思われるような矢久保であったが、そんな彼にでも出会いは他の人と同じで公平にあるようだ。母親からの影響力がなくなり、次第に憔悴していった矢久保に神は見放さなかった。しばらくして体調を崩し、入院を余儀なくされた時に出会った看護婦が、矢久保にとっての、癒しになった。
病気の時というのは、誰であっても精神的に弱いものである。特に普段あまり病気になどなることもなく、さらには人と接触することもない矢久保だけに、病気になると一気にその不安は押し寄せてくるもののようで、入院中は明らかに、
「借りてきたネコ」
状態だった。
そんな矢久保についてくれた看護婦がいて、まだ十五歳になったばかりの矢久保から見れば十分お姉さんであった。年齢は二十三歳だと言っていたが、矢久保から見れば、もっと年上に見えた。
「熟女である母親をずっと見てきたんだから、二十代前半と言えば、幼く感じられるんじゃないか?」
と他の人から見れば、そうなのかも知れない。
しかし、矢久保にとって母親は、あくまでも、
「オンナを教えてくれた相手」
であり、身体に溺れたと言っても、愛情の欠片もなかった相手だった。
しいて言えば、
「近親者という意識はなかったはずなのだが、心の中にあったモヤモヤが背徳感となり、余計に身体の中の血潮を滾らせる結果になった」
と言ってもいいだろう。
愛情がない相手、肉体だけしか見ていない自分にとって、年齢はあまり関係なかったと言ってもいい。しかし、今目の前にいる看護婦は自分にとって初めて相対した女性のような気がして、その視線を四六時中気にしていた。
相手が自分のことをどう思っているか気にはなるが、それ以前に、自分が彼女をどうしたいのかということが分かっていない状態では、ますます悶々とした時間が過ぎて行くだけだった。
病気は自分の気持ちとは裏腹に、順調に回復しているようだった。
「退院の時期もまもなく見えてきますね」
と言って、喜んでいる彼女の顔を見ると、腹立たしく思えてきた。
――俺の気持ちも知らないくせに――
と感じたが、そもそも自分自身で分かっていないことがモヤモヤの原因であることを忘れている。
彼女の名前は宮崎典子という。いつも胸を意識しているので、どうしても名札に目が行ってしまうが、その名札に書かれている名前を見ると、ドキッとしてくるのは、自分がおかしいからだろうかと矢久保は思った。
真っ白いナースキャップがやけに眩しく感じられる。今までであれば看護婦というと、
――薬品臭くて、近寄りたくないな――
というイメージがあったが、今はそんなことはない。
母親に感じた淫靡な臭いを思い出すだけで、今は気持ち悪くて吐き気を催してきそうであった。しかし、典子の清楚な笑顔と、無視できない薬品の臭いに混ざって匂ってくる淫靡な香りは決して母親のものとは違うもので、薬品の臭いが却って消毒作用を感じさせ、さらに淫靡な想像を掻き立てるのだった。
矢久保が入院した病院は、それほど小さな病院ではないので、入院患者も結構いる。さすがに陸軍病院のように大けがをした人はいないが、病気による入院は多く、別病棟では感染症患者を収容するところもあり、隔離病棟すらあるくらいだった。
典子は一般病棟での看護だけだが、それだけに笑顔が多く、患者からも人気があるようだった。
中には露骨に嫌がることをしては、典子を困らせる中年患者もいて、見ていて、
――あんな大人にはなりたくない――
と思うようになっていた。
自分にモラルの欠片もない過去があるのを棚に上げてそこまで考えられるのは、典子の存在が矢久保を普通の世界に誘う見えない力を有しているかのようであった。
矢久保には、
「自分のことを棚に上げて」
という意識も欠如していた。
それが今後の矢久保の運命を決めることになるかも知れないと、少しして感じたが、それを教えてくれたのは、典子だったのだ。
典子はそんな患者たちを窘めるのがうまかった。看護婦としての経験からなのか、それとも持って生まれた性格からなのか、少なくとも矢久保にはないものであった。矢久保は自分が要領のいいいい男だとは決して思っていなかった。自分を分析することがあまる得意ではないと自分で思っていた矢久保にとって、少なくともこれだけは自他ともに認められる性格だった。
典子を見ていて、まわりをしっかりいなすことのできる性格を羨ましく感じていた。ただ羨ましく感じていただけではなく、たくましくも感じていた。自分が病気だという思いから心細さや依存心が高まっていることからの思いなのだろうが、その思いを典子も分かっていたのではないだろうか。
矢久保の病気は一度よくなって退院したのだが、しばらくすると、もう一度悪化してきて、再度入院ということになった。家族からは、
「なんだお前は。治ったんじゃないのか? 使えんやつだな」
と言われて、蔑まされていることがハッキリと分かるような口調で、詰られたものだった。
それでも、また典子のいる病院に入院できるということで、今度ばかりは家族の蔑んだ口調も気にはならなかった。
――言いたければ言えばいいんだ――
という程度でしか気に留めておらず、親に対してこんなに意識しないですむ自分がいることにも感動していた。完全に、「典子様々」だったのだ。
「また、入院されることになったんですか?」
と、少し呆れたような口調で言う典子に対して、
「ええ、まあ」
と言った、恥ずかしがる様子を少し大げさに見せることで、彼女を引こうと思ったのは、浅はかだったと普通なら思うのだろうが、性に関しては貪欲なくせに、恋愛に関してはまったくのど素人の矢久保らしかった。
「しょうがないですね」
と言いながら、矢久保の面倒を見てくれる典子の存在は、やはり今の矢久保のすべてを支えてくれているように思えてならなかったのだ。