生と死のジレンマ
そんな矢久保をオトコにしたのは、何と母親だった。モラルの欠片もない母親だったこともあって、成長した息子は母親にとって、
「快楽を与えてくれる一匹の獣」
に過ぎなかった。
そこに愛情があるわけでもない。ただ性欲を貪りだけのケダモノと化した母親は、ただ快楽のためだけに息子を求めた。
息子の方も、元々モラルなど持ち合わせているわけでもない。相手がたまたま母親だったというだけで、貞操観念はおろか、近親間であろうが何であろうが、相手が望むことだからと、拒むことはなかった。
そのうちに、背徳感に溺れる母親と、まるで新しいおもちゃを得たというような新鮮な気持ちになった息子との間で禁断の、そして見せかけの性愛が繰り広げられる。鬼畜にも似た愛欲は、道徳観念などまったくない世界の中で、二匹のケダモノが貪るようにただ、相手を求めるだけだった。
これは、経験したことのない人でないと味わうことのできない快感であろう。息子は今まで母親に愛情など感じたことはない。もちろんそれは親子愛のことであるが、身体を重ねたからと言って、今度は男女の間の愛情が芽生えたわけでもない。本能の赴くままに相手を求める行為は、矢久保の中では「正義」だった。これまで愛情を感じたことのない相手に快楽を与えてもらえるなど、想像もしていなかったからである。
矢久保とすれば、母親が何を考えて自分を求めているかなど考えるつもりはなかった。本能に従うことが自分の正義だと思っているのだから、相手の気持ちなど関係ないのだ。母親の方も、相手を息子として見ているわけではない。いくらモラルが欠如しているとはいえ、普通の精神状態なら、息子に手を出すなどありえないことだという理屈は、母親にはあった。そういう意味ではまだ母親の方がモラルとしてはあったのかも知れないが、
「モラルを破ることも快感の一つ」
という思いがあることから、たちは悪い。
いわゆる、
「確信犯」
であった。
息子の方はモラルという言葉すら関心がない。両親ともにモラルの欠如の遺伝子を持った相手から生まれたことで、彼は快楽を受け入れた。ただの快楽だけではひょっとして疑問を抱くこともあったかも知れないが、その快楽の中に、
「癒し」
を見つけてしまったのだ。
他の女性に見つけた癒しであればいいのだが、自分の母親に癒しを見つけてしまうと、それが自分にとっての「母性愛」であった。
母性愛など感じたことのなかったはずの矢久保だったが、癒しを感じた時、
――何か懐かしさを感じる――
と思ったのだが、それをどこで感じたのかというと、まだ生れ落ちる前の母体の中だったとすれば、これは悲しく切ない思い出ということになるであろうか。
癒しに母性愛という今まで感じたことがなかったが、本当は一番欲しかったものを一気に手に入れたのだから、これ以上有頂天になることはない。しかも、ただでさえ性欲が芽生える思春期に訪れた刺激と快感、手放すことなどできようはずがなかった。
母親も、きっと自分の体内にいた時の息子を意識しているのかも知れない。最初は好奇心から軽い気持ちで誘惑した息子だったが、まるでミイラ取りがミイラになってしまったかのように、母親も息子に溺れてしまっていた。毎日のように、いや、目を合わせれば気付くとお互いが求めていて、快楽の赴くまま、矢久保は母親の身体に粘着力の強い体液をぶちまけるのだった。
二匹の野獣は、行為に及んでいる間というのは、まさに、
「野獣の叫び」
であった。
甘い吐息など二人の間には存在しない。他の人が見れば吐き気や嘔吐しか誘わないような光景は、二人だけの世界でしか成り立たないものである。もしこの世にいくつかの地獄が存在するとするならば、この二人の行為は、十分地獄として認識できるものではないだろうか。
「神も仏もない」
と、言わしめるに違いない。
十歳代前半で貞操観念のない性生活を送っていた矢久保は、熟した母親の肉体に溺れていた。だが、心は許したわけではない。むしろ母親という人間に対しては憎しみを抱いていたのだ。
母親も似たようなものだった。息子に手を出したとはいえ、息子を溺愛する母親とはほど遠く、目の前に現れた、
「新鮮な肉体」
に興味を抱き、悪戯心半分に手を出したのだ。
だが、さすがに親子、肉体の愛称はバッチリだったのだろう。母親は息子の肉体にドップリと浸かってしまった。息子の方は、まだ母親しか知らないこともあり、しかも母親の執着に彼自身も離れられなくなった。二人の粘着度は他の人の比ではなく、生まれついての性欲の強さがお互いを離れられないものにしていた。
矢久保は母親と最初に身体を重ねた時は、それほどでもなかったが、オンナの身体をしることで、彼の中にある天性の何かが目を覚ましたのか、誰が見ても惚れ惚れするような美少年になっていた。
まわりの視線に粘着を感じた矢久保であったが、母親の粘着とは違ったものがあり、恐怖すら感じていた。彼には貞操観念もモラルも欠けていたが、恐怖心を抱くという感覚は他の人に比べて激しかった。
やはり他の人と違うものを持っていると、どこかに恐怖心が芽生えてくるもののようで、そのおかげで他の女性に目を向けることはなくなっていた。
だが、どんなに粘着があったとしても、飽きというのは訪れるもの。最初に飽きを感じたのは母親の方だった。
いくら自分好みの男に仕立て上げようとしても、熟した身体が若い肉体を欲するには時間的な限界があった。要するに一人だけでは満足できなくなっていたのだ。
母親の方とすれば、途中から完全に飽和状態になっていた。いったん飽きが来てしまうと、
「見るのも嫌」
という状態になることもあるもので、特に食欲の場合は、毎日同じものを食していると、どんなに空腹になったとしても、見ただけで嘔吐してしまうようになることもある。
母親は自分が誘惑しておきながら、飽きてしまうと、さっさと息子を遠ざけるようになった。
このあたりにモラルの欠片もない人間の容赦はなかった。本当であれば、徐々に遠ざけるようにするのであろうが、飽きが来た瞬間から、母親は昔のように息子に対して嫌悪を抱くようになっていた。
いや、かつての嫌悪よりもひどいカモ知れない。飽和状態になってしまうと、嘔吐を催すようになるからだ。母親の息子を見る目は完全に汚らわしいものを見るような視線であり、今までの母親からの変わりように、矢久保としてもどうしていいのか分からなくなってしまっていた。
――俺が何をしたんだ――
と、最初は矢久保は自分を責めた。
こんな感覚は初めてだった。何か自分に都合の悪いことがあったとしても、自分が悪いなどという感覚は今までではまったくなかっただけに、初めてのこの感覚に対しても矢久保は戸惑っていた。
――思春期という時期だからかな?
とも思ったが、それだけでは説明がつかない気がした。
この状態を他の少年たちが味わったとすれば、中には気が狂うかも知れないと思えるほどの状態であることに、矢久保も気づいていない。子供の頃からの迫害を受けているうちに、精神的にも強くなっていたのであろう。