生と死のジレンマ
あの時、一緒に逃げたと思った矢久保だったが、途中からまるで違う人のように感じたのを思い出したが、それはあの究極のパニック状態に陥ったことから、相手がいつも自分と一緒にいる人ではなく、違う人だと思ったとしても、それはおかしくない気がした。
まわりが火に包まれて、顔が汗でテカテカになっている状態で光って見えるその顔は、まるでこの世のものとは思えなかった。
特に目は光っていて、濡れていたに違いないと思うと、優しい笑みも不気味な笑みにしか見えず、恐ろしさを演出していた。
「矢久保さんは、本当にどこに行ったのかしら?」
と思うと、あの時に感じた、
「死ぬも地獄、生き残るも地獄」
という思いを思い出していた。
確かにS根層が終わり、空から爆弾や焼夷弾が降ってくることはなくなり、火の海に包まれるという恐怖はなくなった。しかし、敗戦により、進駐軍が侵攻してきて、今では街は完全な占領状態である。逆らうこともできず、逃げ惑う人々、彼らに身を委ねて必死に生き残ろうとする人、非難することはできないが、地獄絵図を見ているように思えてならなかった。
典子は義兄に引き取られる形で何とか不自由な思いをすることもなかったが、看護婦生活は続けていた。不自由のない平穏な生活を続けることもできたが、精神的に下手に余裕を持つと、ロクなことを考えないという思いから、敢えて看護婦の仕事をやめる気にはならなかった。
それは義兄も認めていた。
「お前がその気なら、病院を紹介してやろう」
とも言ってくれ、いい意味で充実した生活を営めているように思えたのだ。
病院に勤め始めると、そこにはレズに興じた先輩看護婦がいた。
「お久しぶりです」
と挨拶に行くと、彼女も再会を感激してくれ、
「よかった。生きていたのね?」
お互いに生きていたことに感動していた。
だが、彼女はそれまでの異常性癖を忘れたかのように、生活はノーマルになっているようだった。
「私、戦後になってから結婚したの」
というではないか。
あれほど男性を毛嫌いし、自分が男役であることから、男性の存在すら性の世界での存在を否定していたほどの彼女に何があったというのか。
「戦争がね、私を変えたのよ」
という。
「彼女も戦時中、大空襲に巻き込まれ、命からがら生き残ったというが、そのせいもあってか、
「死線を潜り抜けてく地獄を見るのよ」
と、彼女は言った。
「というと?」
「地獄って、皆同じものだって思っていたけど、人によって違うのよね。私が見た地獄はオンナだけでは生きていけない世界を見たことなのかも知れないわ。それは戦争中に感じたことではなく、戦後だったんだけどね」
という。
話を聞いてみると、彼女は戦後、一人で避難していたところを米軍の兵に蹂躙されたようだ。相手はただの遊びだったが、先輩は必死になって抵抗した。先輩の抵抗は貞操を守ろうとしたものではなく、生理的に受け付けないはずの、存在すら認めていない相手からの暴行なので、これほどのショックはなかったという。
自殺も試みたようだが、
「人間って、一度死に損ねると、何度も死ぬ勇気なんて持てるものではないわ」
と、きっと一度死にそびれたことで、死を断念するくらいにまでになったのだろう。
それを思うと、自分が生きているという理由も何となく分かる気がした。死の覚悟を何度したか、自分でも覚えていないが、次第に死に対して慣れてきた自分と、覚悟を何度もするうちに死を考えることに疲れ果ている自分に気が付いたからなのかも知れない。
「私はね。もうどうでもいいと思ったの。だから結婚という実に平凡な人生に逃げ込んだつもりだったんだけど、それもいいかなって今では思う。人間、なるようにしかならないからね」
と、彼女はあくまでも曖昧な発言しかしなかった。
それは、しなかったのではなく、できなかったのではないだろうか? もしどんな言葉を思い浮かべたとしても、それは口だけにしかすぎず、そんな言葉を発するくらいなら、曖昧にはぐらかすことで、煙に巻く方がいいと思ったのではないだろうか。
「私は自分が死ぬということを怖いと思ったことはないんだけど、そう思ってきた自分が今では信じられないのよ。襲われた時、死のうと思ったはずなのに死ねなかった。そんな自分を恥ずかしいと思ったのも事実だし、死ぬくらいのことをどうしてできないのかとまで思ったくらいないなの」
と言った。
「死ぬということって。そんなに難しいことなのかしら?」
と典子はボソッと言った。
「自分で死のうとするのは難しいかも知れないね。でも、戦争中のように、死にたくないと思って必死に逃げ回っていると簡単に死んでしまう」
「だけど、サイパンやグアムなどの人たちはどうなのかしら? 玉砕って、結局は自殺なんでしょう?」
「確かにそうだけど、あれば、一人じゃなく皆で行ったからできたのかも知れないわ」
「じゃあ、敵兵に囲まれて、手榴弾で自爆するというのは?」
「これも、やっぱり凌辱を味わうことを思えば、死を選ぶ方がいいと思ったからなんじゃないしら? 手榴弾や青酸カリのようなものがあれば、自分で手首をカミソリで切るよりも確実に死ねるからね」
彼女の言っていることは確かにそうだと感じた。
しかし、まさか戦後生き残った自分たちが、戦争中に死んでいった人たちのことをいろいろ想像して話をするとは思わなかった。
「死んだ人を冒涜するようで、あまりいい気分じゃないわね」
と典子がいうと、
「そうかしら?」
と彼女は言った。
それを聞いて、少しムッとして聞き返したが、
「どうして?」
「だって、死ぬも地獄、生きるも地獄なんでしょう?」
と言われ、典子はハッとした。
「どうして……」
と、戦争中に何度感じたか分からない思いを、今ここで先輩から聞かされることになるのかと思うと、不思議な気分になった。
「どうしてって、この思いは私だけでもなく、きっと生き残った人が皆少なからず抱いている感情なんじゃないかって私は思うのよ」
と彼女が言い、虚空を見つめているようだった。
確かに典子は自分だけではなく、矢久保もそういったのを確かに耳にした。だからといて、他の人も皆同じことを思っているなど思ってもいなかったからだったが、次の瞬間、急に何かが降りてきた気がして、
――そうだわ。皆自決することができたその心境は。今彼女が言った「死ぬも地獄、生きるも地獄」ということなのかも知れない――
と感じた。
典子だって、病院から、
「生きて凌辱の辱めを受けず」
と言って渡された青酸カリを持っていた。
――こんなものを使う時が来るのかしら?
と思ったが。結局は使うこともなく、今は家の引き出しの奥深くに眠っている。
「ねえ、死ぬも地獄生きるも地獄ということは、別の意味もあるって私は思うのよ」
と先輩は言った。
「それはどういうことなの?」
と聞くと、
「死ぬも凌辱、生きるも凌辱」
と言った。
「えっ、生き残ったことで凌辱というのなら分かるけど、死んだ人が凌辱ってどういうことなの?」
それこそ、死者への冒涜に思えたことで、思わず声を荒げた典子だった。