生と死のジレンマ
しかし、快感に身を委ねている時の様子は、オンナ以外の何物でもない。そんなことはもちろん典子には分かっているが、それまでの男性としているという感覚をいかに、女性の反応をしている彼女を見て、興奮を切らさないかというのは難しいことだったはずだ。
それなのに、典子は興奮を切らさなかったことが難しかったとは思わない。快感に身を委ねているだけで、それだけで精一杯であり、余計なことを考えないで済んだはずであった。
――そうなんだ、余計なことを考えたりはしなかったんだ――
と思うことが典子の中での一つの答えだったと思えた。
これは一つの答えであって、すべてではないのだが、一つの糸口から、えてしてすべてが見えてくるということもあるもので、典子と先輩との関係は、そんな感情から成り立っていたのではないかと思えた。
典子は矢久保に一番最初に襲われた時、まず最初に頭に浮かんだのが、昔、義兄に悪戯された時の快感だった。
だが、すぐに、
――何かが違う――
と感じた。
そして思い出したのが、レズの先輩だったのだが、その時に典子は急に後悔が押し寄せてきた。
――どうして、すぐに先輩のことを想い出さなかったんだ?
という思いである。
時期的にもごく最近のことなのに、身体に残っているのは、彼女との快感であるはずなのに、どうして義兄を思い出したのかということである。
それはきっと、彼女をオンナではあるが、オトコとして見ていた自分がいて、その反応が女性であったということのギャップの大きさが、襲われているという精神状態で、思い出させないかったのではないかと思ったのだ。
典子は、次第に矢久保に惹かれていき、通い妻のような関係にまでなっていたが、先輩との関係を忘れられずにいたことを分かっていた。そればかりか、矢久保と関係が深まっていくうちに、先輩のことが頭によみがえる頻度が深まっていった。矢久保が侵入してきた時など、手放しで感じる快感を与えてくれているのは、先輩の指のような気がしていたのだ。
ソフトタッチな中に急に激しい快感が襲ってくる。これこそ、男女の間でのセックスに繋がるものではないだろうか。
それを想うと、矢久保に対して、
――悪いことをしているのかも知れない――
という後ろめたさがあるのも否定できなかった。
だからこそ、矢久保に看破された時には典子は驚きと羞恥で、頭が混乱してしまったのだ。
それがちょうど、あの空襲警報があったあの日のことだった。
矢久保は典子に十分な愛撫を施し、いつものように侵入してきた。それを典子は、
――いつもの儀式――
のような気持ちで受け入れていた。
正直、最初の頃のような興奮からの快感が襲ってきているわけではなく、言い方は悪いが、惰性となっていなのは否定できないでいた。
身体が前後に揺さぶられ、矢久保が快感を貪っているのが分かった。
いつもであれば、どれくらいで彼が果てるのかほぼ分かっている。それは時間という意味ではなく、彼の身体から醸し出される反応という快感が教えてくれるのだった。
その日は、若干違っていたが、それがいつから違っていたのか分からなかった。最初はいつもと同じだったのは分かっている。侵入してきて果てるまでの快感の中で、彼は急に身体を離したのだった。
「どうしたの?」
こんなことは今までに一度もなかっただけに、典子は驚いた。
――男の人って、快感の途中で、こんなに簡単にやめることができる生き物だったなんて――
とびっくりさせられた。
矢久保は俯いたまま、何も言おうとしなかったが、典子は、
――彼は体調が悪いので、途中で萎えてしまったんじゃないかしら?
と感じたようだ。
「大丈夫よ。心配しないで」
と彼を慰めたつもりだったが、それを聞いた矢久保は顔を挙げて、典子が想像もしていないような表情になった。
その表情は何かを思いつめているように見えたが、果たして彼の気持ちはどこにあるというのだろう。典子は次第に慌てている自分に気付いた。
――これは尋常ではない――
と感じたのだ。
「典子」
彼は今までにないような低い声で呟いた。
――この人がこんなに低い声が出せるなんて――
と思うほどの低い声だった。
「お前は、誰か俺の他に好きな人でもいるのかい?」
と言われた。
咄嗟に思い浮かんだのは先輩の顔だったが、典子は即座に、
「いないわよ。そんなの」
と、笑いながら否定した。
すると彼は、
「そうなんだよな、今のように否定する姿は実に自然なんだ。それを見ていると、俺以外に好きな人がいるようには思えないんだよな」
と、自分に言い聞かせるような言い方をした。
だが、彼は続ける。
「だけど、お前を抱きしめている時、どうしても、お前には誰かがいるような気がして仕方がないんだ。これは今日初めて感じたことではないんだが、確信めいた気持ちになったのは今日が初めてなんだ」
と言われ、
「今日の私、普段とどこかが違っているのかしら?」
と聞いてみると、
「そうも思えない。逆に違っているとすれば、この確信は生れていないような気がするんだ。なぜなら、最初に抱いた疑問が一直線に繋がっていって、最後に辿り着いた確信なので、急に道が変わってしまえば、もし辿り着いた先が本当に確信だとしても、それを確信だと思えていないと感じるんだよ」
と彼は頭をかしげながらそう言った。
典子は、
――なるほど――
と感じた。
しかし、この「なるほど」はあくまでも他人事のように考えたなるほどであり、理解したわけではなかった。
――一体この人は何を言いたいんだ?
典子は自分のどこから彼がそう感じたのかということよりも、
――なぜ、今日なのか?
ということの方が不思議に感じられた。
「典子は男性が好きなのか、女性が好きなのか? どっちなんだ?」
と聞かれて、ハッと思ったが、
――やっぱり、先輩のことを言っているんだわ――
とこれに関しては納得したのであった。
「私はどっちも好きよ。両刀なのかしらね」
と本当であれば、否定するべきところであろうが、否定することが億劫に思い、最初から思いをぶちまけた。
元々矢久保とはなりゆきでの交際だった。何かのきっかけがなければ成立しない交際であり、
「好きだから、別れたくない」
などという感覚とは無縁だった。
ただ、彼にストレートに聞かれたことで、もし下手に抵抗などして言い訳しようものなら、泥仕合になるのは分かっていた。泥仕合に対しての言い訳は、さらに苦しい言い訳しか生まない。そう思うと、最初から認めて、お互いに興奮して話すかも知れないが、そんな会話の中にこそ、何かの活路があるのではないかと思ったのだ。
だが、矢久保は典子が女性を好きだと言ったことに対して、何ら抵抗は示さなかった。
―ひょっとして最初から分かっていたことなのかしら?
と思ったのは、矢久保が典子を最初に襲った時の雰囲気で、
――何かが違う――
と感じたのかも知れない。
もしそうだとすれば、何という洞察力なのだろう? 典子は矢久保に対して敬意を表したいくらいだった。