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生と死のジレンマ

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 被害としては大したことはなかったが、慌てたのは軍部であった。いずれ空襲があるとは思っていたが、まだ日本軍が連戦連勝の時期に、間隙を突くかたちで行われた空襲に焦りすらあっただろう。
 その思いがあり、日本軍は
「ミッドウェイ攻略作戦」
 を計画した。
 ミッドウェイ島攻略もさることながら、真珠湾で取り逃がした空母をおびき寄せて叩き潰すという起死回生の作戦を立てたのだ。
 これがそもそもの間違いで、暗号文をほとんどアメリカに解読されていたことで、裸状態にされていた日本軍は、戦闘中にさえ瞬時の判断をいくつも誤り、結局、自慢でもあるが虎の子でもあった主力空母を四隻も失うという大失態を演じたのだ。
 ただ、問題はそれだけではなかった。空母が沈められたということは、そこに乗り込んでいた熟練のパイロットを多数失うということである。日本海軍にとって必殺だった「機動部隊」は、空母からの航空兵力を元にするものだったので、母艦はおろか航空兵力になる航空機、さらにそれを操縦するべき熟練パイロットを失ったのは大きかった。
 極論でいえば、空母や航空機は再度作ればいいが、熟練パイロットを養成するには、かなりの時間が掛かる。それまで待ってくれないのが戦争であり、日本軍がこの後、敗退につぐ敗退を繰り返すのは、それが原因だったと言っても過言ではないだろう。
 その後の戦争は、作戦らしい作戦が成功した試しはなく、防戦一方だった。何よりも制海権も制空権もなく、孤立してしまった最前線に、いくら兵力を送っても、待ち伏せされて攻撃されれば、防ぐ手立てもない日本軍輸送船団は、援軍とともに太平洋に沈むほかなかったのである。
 泥沼に入ってきた最前線では、あらかじめ決められていた、
「生きて虜囚の辱めを受けず」
 という戦陣訓を忠実に守り、捕虜になることを恥ずかしいと感じ、手榴弾での自殺、あるいは集団自決である「玉砕」というやり方で、最後を迎えるしかなくなっていた。
 すでに戦略的作戦を立てられなくなった日本軍は、生身の人間を武器として扱う「神風特攻隊」や「人間魚雷回天」などと言った特攻作戦を行うしか、もはや道がなくなってしまった。
「神の国」
 として教育を受けた日本だからこそできる作戦であった。
 だが、サイパンなどのアリアナ諸島が米国の支配下に落ちると、すでに日本の運命は決まっていた。つまりアリアナ諸島からであれば、長距離爆撃機の航続距離から計算すれば、日本本土の狩猟都市すべてが爆撃範囲内に入るからだった。
 実際に、アリアナ諸島から飛び立った爆撃機は、連日のように日本の主要都市に対し、無差別爆撃を繰り返した。
 しかも、爆撃には通常爆弾だけではなく、市中を焼き尽くす、ナパームと呼ばれる焼夷弾が使われ、一度火がついたら、消火することなどできなかった。日本で住民の訓練として行われていた「バケツリレー」など、まったく効果はなかったのだ。
 それでも日本人は空襲を最小限に食い止めるための工夫を行っていた。各所に掘られた「防空壕」などもそうであるが、火事になった時にまわりに燃え広がらないようにするための、いわゆる
「建物疎開」
 というものも毎日のように行われていたのである。
 ただ、それもどこまで効果があったのかは疑問である。なぜなら米軍の爆撃機は列挙して押し寄せ、爆弾や焼夷弾を雨あられと降り注ぐのである。下では逃げ惑う住民、防空壕でじっと耐える住民、さまざまだったことだろう。
 また、空襲に際して行われていたこととして、
「灯火管制」
 というのもあった。
 これは、空襲警報が発令されると、部屋の電気を消し、少しでも爆撃機からの目標をあやふやにしようというものであった。これも無差別爆撃にどれほどの効果があったのかも疑問であるだろう。
 他には、窓ガラスにまるで「?」のようにテープを張っていた。これは爆弾がさく裂した時、ガラスが粉々に砕けて、人に刺さるという被害を最小限に食い止める工夫だった。灯火管制よりも、この方が効果としてはあったのかも知れない。
 そういう意味で、日本は空襲に対して事前に対処を取るように訓練されていたり、準備もされていたが、圧倒的な破壊力での空襲には歯が立たなかったことだろう。
 結局、終戦までの一年ほどで、主要な大都市はほとんどが焼け野原になってしまい、焦土と化した国家を憂いた天皇が、自らの英断で、戦争を終わらせたのであった。
 だが、天皇が戦争を終わらせると言っても、結局は軍部の一部は納得が行かなかったようだ。
 宮中事件というものを引き起こし、最後の抵抗を試みたが、それが失敗に終わり、戦争はそこで完全に継続不能となってしまった。連合国の「無条件降伏」を受け入れた日本はそのまま降伏し、日本本土はもちろん、満州国を中心とした大陸へ渡った人も占領軍によって拉致されたり、強制労働を強いられたりと、屈辱的な状態になったことは、歴史の証拠として残っているのだ。
 その後、民主国家として生まれ変わった日本だが、そこにはアメリカをはじめとする国の思惑が働いていることは周知のことであるが、それまでの大日本帝国という時代を、
「悪い歴史だった」
 として一刀両断とするのはいかがなものかと考えるのは筆者だけであろうか。
 そんな時代を負の歴史として片づけるのは簡単であるが、
「そんな時代に生きていた人もいて、そんな人々はひょっとすると今の時代よりも真剣に、そして必死に生きていた」
 と言えるのではないだろうか。
 急激に歴史が変わった背景に、戦後の混乱があったことと、アメリカの思惑などが絡まって、今の日本人にはまったく理解できない時代だったのかも知れない。
 そんな時代の一人一人の心境を、今の時代の自分がここで書くのは当時の人への冒涜なのかも知れない。なるべく、心境に触れることなく、事実、あるいは事実として伝えられていることを冷静に書いていきたいと思っているが、人間なので感情移入が無意識にでも入ってしまっていれば、そこはご容赦願いたい。

 時としては昭和二十年の春、いよいよ本土空襲が本格化し、毎日のように空襲警報に悩まされるようになったからのことだった。
 最初に空襲警報が鳴った時のことは、生き残った人にはセンセーショナルな思い出として残っていることだろう。軍事訓練として日課のようにやってきた経験を生かして冷静に行動するべきなのだろうが、実際に警報が鳴ると、そうもいかない。
 しかも、自分だけの問題ではなく、まわりがパニックになると、自分もいくら平静でいないといけないと思っていても、そうもいかないのが人間というものではないだろうか。
「ウーーー」
 その響きは鳴り始めてから耳に慣れてくるはずだから、音が次第に静かになりそうなものだったが、最初に聞いた時には、その音が次第に大きくなってくるような錯覚に陥っていた。襲い掛かってくる恐怖を空襲警報が代弁していると思うからなのか、それとも目に見えぬ何かが自分を押さえつけているという思いがあったからなのか、その時の恐怖を表現するすべを知らなかった。
作品名:生と死のジレンマ 作家名:森本晃次