生と死のジレンマ
「一概にそうだとは言えないけど、今のお前の話を聞いている限りでは、単純にヒモという言葉だけで片づけられるやつだとは思えないな」
「ええ、でも彼には男らしさというのはあまり感じられなかったの。それなのに、私にすがっているというわけでもない。私にもあの人との関係がどういうものだったのか、ハッキリとは分からないわ」
「こんな時代だから、似たような境遇だったりすると、寂しさから情が湧いてくるというのもあると思うんだけど、そこはどうなんだい?」
「彼は、あまり自分の過去を話す人ではなかったわ。そもそもほとんど会話が成立する人でもなかったので、余計なことを言わないどころか、余計ではないこともほとんど口にしないので、何を考えているのか分からない。だけど、私が彼を恋しく感じる時に限って、彼が私を求めてくるの。まるで私の気持ちを察したかのようにね」
「お前はそれでよかったのかい? 今の話だと、そいつは自分の意志というよりも、お前が欲しているから相手をしているだけだという風にも聞こえる。それを本当の愛情というのだろうか?」
「そうね。私が彼を欲しない時は、彼が私に迫ってくることはなかったわ。だから、彼が私を求めていたという意識は低いカモ知れない」
「でも、それだけ以心伝心していたともいえないかい? 彼がお前を欲した時、お前も彼を欲したという、いわゆる相性のようなものだけどね」
「歯車がずっと噛み合っていたということなのかも知れないわね。でもちょっとでも狂うと、その歯車は二度と噛み合うことはない。平行線が決して交わらないようにね」
典子は、彼が迫ってきた時のことを想い出していた。
同棲とまではいかないが、一時期、通い妻のように矢久保の部屋に行き、食事を作って食べさせたり、彼の欲求不満のはけ口のようになってしまっていた時期があった。もっとも典子が彼の部屋に赴く時は、自分の中に彼を求めるという血が騒ぐものがあったからに他ならないので、一連の流れは、すべてが想定内のことだった。
それだけに、感動のようなものはなかった。淡々として時間が過ぎて行くだけだったが、典子はそれでもよかった。
「明日をも知れぬ命」
まさに時はそんな時代だったおだ。
本土空襲は毎日のように続いていて、この街にも週に二、三度空襲警報が鳴り響くほどであった。
建物疎開はまだまだだったが、避難に使う防空壕はできていて、灯火管制も訓練されていたこともあって、夜間爆撃では、そこまで被害がひどいわけでもなかった。
典子は職業柄、家が病院の近くだったので、比較的爆撃が緩やかだったような気がする。もちろん気のせいなのだろうが、軍需工場の近くは被害はひどいが、病院や学校などの施設の近くは、比較的被害が緩やかだったと思うのは、人道として当然のことなのかも知れない。
矢久保の部屋も、典子の家の近くにあった。そういう意味では、被害はさほどでもなかったが、実は近くでは建物疎開が続いていて、身体が完全ではない彼だったが、昼間は建物疎開の作業に駆り出されていた。
さすがに空襲が始まってからは看護婦としての仕事が増えたこともあって、仕事中はよけいなことを考える暇もなく、気が付けば一日があっという間に終わっている。
「明日にも空襲があるかも知れない」
と思うと、なるべくなら一日一日がゆっくり過ぎてほしいと思うのが人情であろう。
それなのに、無情にも一日があっという間に過ぎてしまい、夕方頃には、憔悴してしまった身体を癒して元に戻すまでには結構時間が掛かったりしていた。
矢久保の部屋には週に二回ほど来ていたが、それも典子にとっては大いなる癒しになっていた。本当はもっと頻繁に来たかったのだが、毎日のように来ると、生活にメリハリがなくなり、せっかくの感動が味わえなくなると思ったからだ。
その感情はお互いに持っていて、
「週に二回というのは少ないんじゃないか?」
という意見はどちらからも出ることはなかった。
――こんな気持ち、戦時中でなければ感じることはないわよね――
と思っていた典子だったが、矢久保もきっと同じ考えだと感じていた。
彼が口数の少ないのは、相手が同じ考えだと思うからではないかと思うようになった。考えが違っていれば、ハッキリとそのことぉ口にする人だということは、最初に出会った入院中に感じたことだったので、その思いは今も変わっていなかった。ただ、その中で人に知られたくない過去のようなものがあって、それを悟られたくないという思いから、余計なことを喋らないのだと思った。
それは典子も同じだった。
オトコと言うと、実は義兄しか知らない。義兄は一度だけ典子を抱いたことがあったが、その時のことを、
「あれは事故だったんだ」
という言い訳をしたことで、典子も事故だったと思うようになった。
事故だったと最初に義兄の口から聞いた時、典子の中で、
――これは恋愛感情ではない――
という思いから、異常性欲、つまりはSMの世界の出来事のように思ってしまったのだ。
もし義兄が、「言い訳」などしなければ、この関係を恋愛感情と思ったかも知れない。ただ、義兄はその時、最後の一線を越えることはなかった。あくまでも典子の身体に「悪戯」をしたにすぎないのだ。そういう意味で、
「男を知っている」
とは言えないかも知れない。
典子は処女だったのだ。
しかし、典子の中には異常性癖が見え隠れしているようで、見る人が見れば、
「このオンナ、自分と同じ性癖を持っているんだ」
と思うようだった。
典子に近寄ってきたのは、看護学校に入学した時の先輩であった。当時の看護学校なので、もちろん相手は女性である。その人は身長が男性に負けないくらい高く、男性からも随分と言い寄られていたようだったが、その「男気」のせいでm言い寄った男性は簡単に玉砕してしまい、ほとんどの男性が言い寄ったことを想い出したくないような屈辱感に見舞われるのであった。
そのオンナから罵声を浴びせられるのであったが、罵声を浴びた瞬間、彼らは得体の知れない羞恥に見舞われた。中には羞恥を快感のように思う人もいたようだが、そんな連中は自分が羞恥を感じたことで、自分の理想の相手が彼女ではないということに気付くという実に皮肉な様相を呈していた。
その先輩看護婦は、女性一本だったわけではなく、基本は女性が相手だが、男性が嫌いだったというわけでもない。いわゆる「両刀」だったのだ。