生と死のジレンマ
戦争中、お互いに身寄りもなく、今こうして出会えたのが奇跡だと思えるような相手であるから、いくら義理であっても兄妹には変わりない。それを想うと、二人とも態度に出す気持ちに差はあるが、本当の気持ちは同じところにあるのだった。
「お前は、その矢久保という男を今でも慕っているのか?」
と義兄に聞かれた。
「ええ、お義兄さんよりも本当はあの人に会いたいと思っているくらいなのよ」
と臆面もなく言ったが、義兄もそれくらいのことでショックを受けるようなことはなかった。
「そうか、お前にも好きな人ができたんだな」
と言われたが、
「好きなのかどうか、実は分からないの。ただ……」
「ただ、何だ?」
「ただ、あの人とは離れられない気がするの。一緒にいることが自然であって、離れていることが不思議な気がするの」
「じゃあ、今は不思議な気がしているんだね?」
「そんなことはないのよ」
「じゃあ、離れていることと、一緒にいないことが実は違っているということなのかい?」
「ええ、私にはそう思えるの。離れているのは不思議な感じがするんだけど、一緒にいないとしても、それは不思議ではない気がするというのかな?」
「二人が離れていないとしても、四六時中一緒にいるわけではない。別々の時間帯があるわけだから、それも当然のことなのかも知れないな」
義兄は何となくだが、典子の言いたいことが分かったような気がしていた。
「矢久保という男は、お前の話を聞いていると、どこかおかしな性癖を持っているようだな?」
「彼が言っていたのは、女性は大丈夫なんだけど、オンナはどうも苦手だって言っていたのよ。でも、私を抱いている時、私に対してオンナの色香を求めているような気がしていたんだけど、これって私の思い過ごしなのかしら?」
「女性とオンナの違いは、男性に対して自分を飾るか飾らないかではないかと思ったことがあるんだ。女性はどうしても自分を誇示しようとするんだけど、オンナは自分自身を曝け出して、曝け出した自分を好きになってもらおうとする。だから、逆に言えば、そんな自分を好きにならない男性を、ずっと追いかけるようなことはしないんじゃないかって思うんだ」
「お義兄さんは、そんな経験をしたことがあって?」
「俺にはないんだけど、俺の研究テーマの中には恋愛というのも含まれていてね。感情や衝動、それから本能なども研究対象にしていたものだよ」
と言った。
それが、人工知能のことだというのを典子は知らなかったので、義兄がどんな研究をしていて、その研究が他言してはいけない秘密事項であるということすら知らなかった。
義兄は、人工知能で、女性の感情や本能を研究していた時、いつも思い浮かべていたのが典子だった。
典子は従順なところがあったが、決して相手に心を許そうとはしない強い意志を持っていた。その意志がどこから来るものなのか分からなかったが、S性にあるということに気付いたのは、自分が女性とオンナの違いについて研究していた時だった。
表面上は女性であり、身体を交わす時にオンナに変貌する人工知能を持ったアンドロイドを考えていた。相手を盲目にし、自分の手中に収めるにはどのようにすればいいかという研究である。
だが、研究を続けているうちに、実は反対ではないかと思うようになっていた。
表面上がオンナであり、内面は女性であればどうなるか?
オトコとしての本性を、表面上のオンナが、相手を丸裸にする。そんな中で気持ちに入り込んだ部分で、相手に対し、自分を誇示するような態度を取れば、相手が逃げ道を塞いでしまう効果があるのではないかと思った。
さらに、女性とオンナの違いとして、オンナの発するフェロモン、つまりは身体の反応を促すような香りをオトコに植え付けることができれば、男を虜にできるだろうと思うのだった。
研究は、暗礁に乗り上げていた。どんな香りが男を虜にするのか、実際のデータではあまりにも不足していた。食料品や弾薬などの必要不可欠な物資ですら、この時代では調達が困難なのに、極秘任務に使う物資が手に入るはずもない。時代が悪いと言えばそうなのだが、こんな時代だからこそ必要な研究であるということは実に皮肉なことであった。
「お前、ひょっとしてどこかの部分の記憶がないんじゃないか?」
と、急に義兄は言った。
自分の記憶が欠落しているなどというのを意識したことはなかった典子は、言われるまでまったく気づいていなかったが、言われてみると、記憶の時系列がまったく機能していないことに気が付いた。
しかし、記憶というものが曖昧で、古い記憶になればなるほど、時系列などあってないようなものだということも分かっていた。
それは、義兄にもよく分かっていることだった。
「ずっと前のことを昨日のことのように思ったり、昨日のことなのに、ずっと前だったと思ったりすることもあるけど、それには共通点があると思うんだ」
「それは?」
「夢で見るということなんだ」
「夢なんて、ほとんど覚えていないけど?」
「そうなんだよ、覚えていないから、一度夢に出てくると、記憶の時系列は本当に曖昧になるんだ。そのことを俺は結構早い段階で研究していたような気がするな」
義兄の研究のほとんどは他言してはいけないことであったが、夢の世界の話だったり、元々話をしても曖昧なものとして、あまり信憑性の深くないことであれば、いくらでもごまかしが利くということで、口にしてもいい内容だった。
義兄は続けた。
「夢を覚えていないというのは、きっといい夢だったりするんじゃないかな? 逆に覚えている夢は怖い夢が多い。だから俺は最初の頃に見ていた夢を思い出して、夢というのは、怖い夢しか見ないものだって思っていたんだ。でも、そのおかげで、夢というものは、どんなに長いものでも、目が覚める数秒間で見るモノだって思うようになったんだけど、実はそのことを学会で発表した人がいたんだ。俺なんかまだ学者としては初心者だったので、他の学者が同じ発想で発表したということを聞いて、嬉しかったものだよ。だから俺の発想の原点は、夢というものなんだ」
と言っていた。
「じゃあ、記憶と夢、そして意識というのは、切っても切り離せない関係にあるということなのかしら?」
と典子がいうと、
「俺は少なくともそうだと思っているよ」
と義兄は答えた。
「時にその矢久保という男、どのような男なんだい?」
と、今度は義兄が聞いてきた。
「何といえばいいのかしら? 変な粘着を感じるオトコだったわね。爬虫類のようで気持ち悪さもあるんだけど、どこか哀愁のようなものが感じられて、放っておくということができなかったのかしらね」
と典子がいうと、
「ヒモのような感じなのかな?」
「ヒモっていうと、女性のお金を当てにして、自分は何もしない。いえ、オンナを縛り付けておくというイメージがあるんだけど、彼にはそんな雰囲気はなかったわ。彼の身体や性的なテクニックで女性を引き付けておけるほどのものはなかったし、確かに彼はお金もなかったけど、女性にすがって生きることに対して、きっとプライドが許さなかったはずだと思うから」