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生と死のジレンマ

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 あれは、まだ自分が矢久保氏の部屋に入ってからすぐのことで、気持ちが高ぶりかけていた時だったので、確かに警報にはビックリしたが、急いで逃げようとした時、表に様子を見に行った矢久保が、
「表は平然としているみたいだ。どうやら勘違いだったんじゃないか?」
 と言って部屋に戻ってきた時、矢久保の顔に浮かんだ安心の表情が印象的だった。
 それまで引きつっているかのように見える顔は血色も悪く、何かを思いつめたような様子だったのが怖かったが、安心している顔を見ると、自分も急にホッとしてきて、思わず笑い出してしまいそうな気がしたくらいだ。
 それを分かったのか、先に矢久保が笑った。それまで見たことのないような表情で、声を立てて笑ったのだ。
「ははは、一体何にビックリしたんだろうな」
 と言って笑っている。
「そうよね。でも、二人ともほとんど同時くらいに警報に気付いたのよね。偶然だったというだけのことなのかしら?」
 と典子は言ったが、それには答えずに、
「俺たちって似ているようで、実は似ていないのかも知れないな」
 と話を逸らした感があったが、典子はそれを聞いても違和感があったわけではなかった。
「似ていないと私は思うわよ。ひょっとすると正反対なのかも知れないって思うくらいだわ」
 というと、
「いや、正反対ということは、逆に似ているという部分が多いような気がするんだ。それよりもお互いのことを分かっていると思っている人がいるとするでしょう? あなたはそれをどう思いますか? 本当に分かっているんだって思います?」
 矢久保の質問は何が言いたいのか、聞きたいのか分かりにくい内容だった。
「いいえ、分かっているとは思えない気がします。分かっているつもりになっているということを、少しでも感じなければ、勘違いであってもそれを認める気持ちになれないからですね。つまりは思い込みがそのままその人の性格になってしまうということですね」
「そんなに簡単に人の影響を受けるものでしょうか?」
「人それぞれだとは思いますが、私のまわりにいた人のほとんどは思い込みの激しい人が多かったので、そんな人たちに自分の人生を左右されてきた人の気持ちは分かるつもりでいます」
 と典子は冷淡に言った。
 その時、義兄のことを想い出していたが、義兄の性癖を思い出すと、彼はきっと典子の性格に思い込みがあり、その思い込みと典子の一挙手一同が合致したことで、思い込みがさらに確信に変わり、自分が蹂躙できる相手だと思ったのだろう。
 義兄は、別にSMの趣向を持っていたわけではない。悪友からSMについての話を聞かされて、
――俺にそんなことができるはずはない――
 と思っていたのだが、それは自信がなかったからだ。
 自分に自信がなければ、相手など見つかるはずもない。特にSMという特殊な正hr機の人を相手にすれば、自分が狂わされてしまうと思ったからだ。
 学問に関しては貪欲で、勉強を重ねれば重ねるほど自分に自信をつけていき、結果を出せるようになったことで、自分の将来が約束されたのだが、他のこととなるとまったくであった。
 えてして学者や博士なる人種というのは、そういうものではないだろうか。
 何か一つのことに特化して、無類の才能を発揮できる人というのは、他のことをすべて犠牲にしてでも、特化させることに長けている。だからこそ、他の人と違うものを引き出すことができたのだ。
「人間というのは、脳のほんの一部しか使っていない」
 と言われているが、まさしくその通りだろう。
 自分の研究が進めば進むほど、義兄の頭の中では。
「まだまだいくらでも発想が思い浮かぶに違いない」
 と信じて疑わなかった。
 それは、進めば進むほど先が見えてくるはずなのに、どんどん深く入り込んでくることで、今まで見えなかった膨らみも感じるようになってくる。
 実はここまで来るまでに、かなりの時間と労力を浪費するのだろうが、そこまでくれば、正直、博士と呼ばれるくらいまではあと少しであった。ただ、労力も時間も、結局は、
「紙一重の世界」
 なのである。
 世の中には「パラレルワールド」という考え方がある。奇しくも義兄の研究はこの「パラレルワールド」の発想から始まったのだが、それは、
「過去、現在。未来とあるが、過去が現在になって未来になる。過去はどんどん増えていくが、現在は一瞬でしかない。では未来はどうなのだろう? 過去が増えていくのであれば、未来は減っていくのであろうか? もしそうでないとすれば、過去、現在、未来というものをつなげて考えると、そこに無限という発想が生まれる。では今まで現在だった次の未来には何が待っているのかを可能性ということで考えてみよう。そこにはやはり無限の可能性が潜んでいるのだ。つまり、可能性というのは誰にも、そしていくらでもあるから可能性というと言い切ってのいいのではないか」
 という発想することではないかと、義兄は感じるようになった。
 それが、深入りしてから感じる膨らみのようなものであり、無限という発想なのだ。
 だが、彼はこの無限という発想を、逆に、
「限りあるものとしての定義」
 として考えるようになった。
 無限というものを創造してしまうと、人間が作り上げるものでは適わないということにもなる。人間には絶えず限界がある。その証拠が、
「人は必ず死ぬ」
 という発想である。
 しかも、
「人間は生れてくる時に自由はないが、死ぬ時は自由である」
 ともいえる。
 宗教的には、それを認めない宗派もあるが、自分で自分の命を断つことができる以上、死ぬことも自由だと言えるのではないだろうか。
 ただ、自殺や寿命による大往生でもない限り、死が無限のものではない。病気であったり不慮の事故、あるいは誰かに殺されるなど、人は一歩間違えると死というものと背中合わせに暮らしていることになるだろう。
 義兄はそのたぐいまれなき頭脳で、実は人工知能の研究をしていた。
 いわゆるロボット開発というものだが、それはあくまでも、
「戦時に利用できるもの」
 という意味での研究であった。
 人間のような消耗品ではなく、機関銃で撃たれても、爆弾が爆発しても、焼夷弾でまわりが焼け野原になったとしても生き残る強靭な肉体と、感情が死滅し、冷徹な感情で、相手を殺傷することだけを目的とする、
「人造人間」
 である。
 もちろん、この研究は日本だけで行われていたわけではなく、アメリカなどの先進国や、化学兵器には最先端を行っているナチスなども当然開発していたに違いない。
 研究チームは超がつくほどの極秘任務を帯びている。義兄はまだ若かったので、国家機密に抵触するほどの秘密にまでは関与していなかっただろう。戦争が終わる頃までにどこまで関与していたのか分からなかったが、典子は終戦間際まで義兄の消息がつかめたことで、そこまでの関与はなかったに違いない。
 義兄の研究は、ロボットの頭脳開発についての研究だったが、一進一退だっただろう。研究すればするほど、また元の場所に戻ってきてしまう。
 それがどうしてなのか、義兄のグループには分かっていなかったようだ。
作品名:生と死のジレンマ 作家名:森本晃次