生と死のジレンマ
軍相手ということになると、軍人さんを慰めるのも勘繰負の仕事の一つとなり、公然ではないが、秘密裏に慰安婦としての仕事も彼女たちには与えられていた。
もちろん、それだけの手当ては保証されたが、どうしても外地から帰ってきた人の中には、病気を持っている人も少なくない。外地は日本本土と違って、水質もよくなく、水から感染する病気もあり、看護婦の中には、そんな病気に罹り、ひそかに隔離治療を余儀なくされた人もいた。
そんな看護婦は一度病気に罹ってしまうと、それ以降はここで看護婦は続けられない。民間に引き取ってもらうことになるのだが、
「あの看護婦さん、昨日までいたのにな」
と言って、いきなり消える看護婦があるのは、そのせいだった。
看護婦に病気を移した患者も、もちろん伝染病専門病院に移され、看護婦と同様に隔離治療を受ける。軍部出身者が病気を患った場合は、伝染病専門病院を出た後、怪我が治るまで今度は陸軍病院に移される。元々は陸軍病院だけでは賄えない患者が増えてきたので民間に委託していた経緯はあったが、慰安という意味での民間病院は貴重で、そういう意味で典子の勤務する病院は、軍にとってはなくてはならない病院の一つだったのだ。
ただ、外地からの帰還兵が患っている病気にはさまざまなものがある。誰かに移されてからしばらくは無症状だったが、中には女性とセックスをすることで発病するというものもあるらしい。
軍の研究部としては極秘にされていたことであるが、さすがに病人を出した病院には知られてしまう。軍に対して従順で、軍に頼らなければやっていけない規模の病院は、軍にとって本当に必要だった。
当時としては、まだ軍の権力が民間には及んでいなかったので、守秘義務を順守してくれる病院でなければならない。つまりは病院と軍とがズブズブの関係になっていることも漏らすことのできない極秘である。
世の中が軍国主義に傾いていく中で、まだ戦争が始まる前というと、軍部が絶対的な権力を持って、街を動かす時代でもあった。そんな軍の直営ともいえるこの病院は、地元ではかなりの権力を持っていて、その恩恵に預かってか、病院は金銭的な面ではかなり潤っていた。
ただ、それは病院の経営者など一部の人たちに言えることで、軍の影響力がほとんど及んでいない最前線の医者であったり看護婦には、病院幹部に恩恵が流れているなどというキナ臭いウワサを知ることもなく、絶えず軍人に対して、慎ましく接するように心がけさせられていた。
だから、外地から帰ってきた軍人である矢久保に対して、典子は逆らうことができなかった。典子は矢久保のことを嫌いではなかったが、別に好きというわけでもなかった。ただの患者さんとして接するうちに情が移ってきたのは確かで、話をするうちに、矢久保の中にある寂しさが感じられるようになった。
典子の中にも一抹の寂しさがあったが、その正体が何であるか自分でも分かっていなかったのに、矢久保の寂しさに触れた時、
――忘れていた何かを思い出したような気がする――
と感じたのだ。
それは、
「矢久保に対して、兄と同じ臭いを感じた」
ということであった。
それがどんな臭いなのか分からない。義兄に対して普通の知り合い方であるなら、一番知り合いたくないと思える相手であった。今だ恋愛感情などというものを抱いたことのない典子は、自分が変態であることは自覚はしているものの、恋愛などという甘っちょろいものにうつつを抜かしている他の人たちを嫌悪もしていた。
「恋愛なんてまどろっこしいだけじゃない。相手を求めるなら、即決な方が素直でしかも、感情が素早く相手に伝わるので、勘違いなどもありえない」
と思っていた。
実際に人に勧められて恋愛小説などというものを読んでみたが、途中の半分にも満たない部分で挫折してしまった。
「本当にじれったい。相手を求めるなら、自分から抱き着くくらいの行動がなければいけないわ」
と思っている。
しかも、その小説は、「あざとさ」が前面に出ているような小説だった。言いたいことをオブラートに包み、気持ちを直接伝えないところが読者の共感を引くのだと言われているようだが、皆が皆同じ考えであるわけはないという思いから、読んでいて次第に惨めになる自分を感じた。
それは、まともに正面から見ていない自分が情けなく惨めだということは分かっていることであった。だが、読む人皆同じだと思わせているようで、どうしても容認できない部分がある。本来であれば、
「そんなに嫌なら、読まなければいい」
ということなのだろうが、その気はなくとも人に言われたからと言って読み始めた以上、すぐにやめてしまうことは自分にも納得のいくことではなかった。
変なところがまっすぐな典子は、さすがに読んでいて嘔吐を催してきたことで、これ以上の読破は無理だと思ったことで、途中で読むのをやめた。どうしても納得のいかない部分がある反面、納得のいく部分があったのも事実だった。
しばらくはその本のことを忘れていたが、矢久保と話をしていると、その本で納得した部分が矢久保との会話で繰り返されているような気がした。
彼との会話は別に何の変哲もない会話であったが、ところどころ出てくる母親という言葉に、典子は違和感を覚えながら、自分も義兄を思い浮かべてしまっているのを感じた。
――私がこの人の立場だったら、私はお義兄さんの話をするのかしら?
と思った。
彼が会話をしながら緊張しているのは分かっていた。緊張してしまうと、普段なら絶対に話さないような話題でも口にしてしまいそうになるのを感じることがある。むしろ普段しない話をしたくなると言ってもいいようなシチュエーションを、緊張しているという感覚は与えてくれるのかも知れない。
「お義兄ちゃん」
思わず口から出てしまったことを、最後の語を発生する前に気付いてハッとしてしまった。
矢久保は気付かぬふりをしているが、絶対に気付いているに違いない。その証拠にそれまで世間話しかしていなかった状況で、いきなり微笑みをかけてくれたのだから、何か感じるものがあったからに違いない。
矢久保の微笑みは、包み込むような微笑みだった。だが、その微笑みには、
「委ねたい」
という気持ちが含まれていたわけではない。
どちらかというと、
「癒されたい」
という気持ちが強かったような気がしてならない。
癒されたいという気持ちは委ねたいという気持ちとは正反対の感覚であり、相手に身を任せるわけではなく、相手が与えてくれるものに自分が乗っかるという意味に近かった。
典子は、
――与えられるものだけで満足できない性格なのかも知れないわ――
と感じ、そこに欲求不満が渦巻いているように思えてならなかった。
その感覚は、
「癒されたい」
という思いがS性であり、
「委ねたい」
と感じることがM性だと思った。
S性に関しての癒しは、Mの人であっても感じることであり、癒しだけではSMのどちらかに傾倒していても、どちらの性癖なのか分からないという特徴があるのかも知れない。
――昭和二十年のあの日、確か空襲警報が二回鳴ったような気がしたわ――
典子は、急にそう感じた。