生と死のジレンマ
「自分が相手を見つめる。見つめられている相手がそれを感じて、果たしてどう感じているのか?」
それを知りたいという思いが、典子を興奮させていたのかも知れない。
次第に見られていること、そして垣間見ていることがお互いの間での「公然の秘密」のようになり、見られている方よりも、見ている方がその気持ちを強くしていった。
なぜなら見られている方に主導権があるからである。見られている方が行動する自由があり、見ている方には、それをコントロールする力はないからだ、だが、二人の間にその関係が微妙に狂ってきているような気がした。
――俺は彼女に見られることで、やらされているような気がする――
という思いに義兄は駆られていた。
典子の視線が相手を操るだけの力があるわけではない。相手にすぐに看破できるような素直な視線であるが、あくまでも素直であって、必要以上の圧力を感じさせるものではない。
だが、男の方は自分がまるで操り人形にでもなったかのように、身体の自由を奪われているような気がしていた。しかも見ている相手に、そんな鋭い視線を感じるわけでもない。義兄は、
――俺がおかしいんじゃないか?
と思うしかなかった。
なぜなら、このことを典子に確かめてみる勇気がなかったからだ。そもそも、典子と義理の兄妹になってからというもの、まともに話をしたことはなかった。食事の時にも寡黙で、これは元々食事の時間は静粛にするものだという義父の基本的な考えによるものだが、義父でなくともこの時代では、食事の最中に余計なことを話さないというのは当たり前のことでもあった。
しかも本当の兄妹ではなく、つい最近、
「二人は兄妹だ」
と言って、いきなり連れてこられて対面した相手なので、何かのきっかけでもなければ話をするなど、お互いに考えられなかった。
それならまだ相手に対していろいろ想像、いや妄想する方がいくらか簡単だった。典子の方はまだまだ幼女の域を出ていないのでそこまではないが、義兄の方は、そろそろ思春期に達する年齢であった。典子からすれば、思春期に差し掛かり、日に日に大人の雰囲気が感じられるようになってきた義兄が、どんどん遠ざかっていくように思えて仕方がなかった。
思春期というのは、羞恥を覚え、その羞恥心が自分の中のオトコを目覚めさせるのだが、羞恥を覚えるのは女性というものに対してなのか、それとも自分自身に対してなのか、その区別をしっかり分かるようになってこそ、いよいよ大人への入り口に差し掛かったと言っても過言ではないだろう。
典子は義兄を見ていると、
「何かしがらみようなものがあって、そこから抜けられずにもがいている」
というような雰囲気に感じられた。
もちろん、そのしがらみがどんなものなのか分かるはずもなく、必死にもがいているその姿が、急に可愛らしく感じられた。
――私にはないものだわ――
と感じたが、それが男女の違いというものなのか、それとも、まだ思春期に差し掛かっていない自分と、思春期真っ只中にいる兄との年齢を超越した違いなのではないかと感じた。
確かに義兄は何かに縛られているという感覚を持っていたが、それは典子が思っているようなしがらみではなかった。どちらかというと、もっと自由なもので、本人の解釈のしようによっては、どうとでもなる感覚だったのだ。
だが、この感覚が大切である。
いくら自由だと言ってもその感覚を誤認してしまうと、あらぬ方向に歩みを進めることになってしまう。そちらの方向に歩みを進めると、まわりからも一目瞭然と言えるような当時としては、
「堕落した人生」
を歩む最初のきっかけになってしまうという危惧があった。
まだ思春期に差し掛かっただけの人生なので、まだまだやり直しは利くのだろうが、最初が肝心だという考えも当然のことであり、最初を間違えると修正するのは困難であるだろう。
そんな漠然としたものが典子には中途半端に見えて、まるでしがらみのように感じられたのだとすれば、それも無理もないことであろう。
しかも、その頃の義兄は、まわりの同級生の間からも無視されるようになっていて、いわゆる、
「村八分」
として、まわりが結束して義兄に関わらないようにしていたようだ。
その理由も差だからではない。
もしこれを、
「苛め」
の一種だとすれば、苛めに理由などありえるのだろうか。
気に食わない人がいれば、それが苛めの対象になるというのは、古今東西変わりがないことのように思える。
つまりは、都会であっても田舎であっても、時代は明治であっても大正であっても昭和であっても変わりない。もちろん、微妙な違いはあり、それが時代の流れとともに変革しているのも分かっている。だが、そんな微妙な違いに対しては、時間の経過とともに、その時々を点として捉えれば、きっと大変な違いと思えるのも仕方のないことのように思えるのだ。
都会で過ごしたことのない人間には都会の人間の雰囲気が、田舎で過ごしたことのない人には田舎の人間の雰囲気が分からない。そのためお互いを恐れるためか、精神的にはどうしても相手に対して敵意を最初に抱いてしまい、その敵意が元々は警戒心からが出発点だったということを理解させないのだろう。
義兄はずっと東京で育ったらしい。この事実も典子が義兄に対して、どこか敵対心を抱いていた理由でもあっただろう。
近づいてはいけないと思いながらも、その一挙手一同が気になってしまう。義兄としても、相手が自分を警戒しているのは分かっていて、しかも自分が都会からやってきたという自負があるため、決して弱みを見せてはいけないという意識があった。
それは自分の中にある、
「都会人の意地」
のようなものかも知れない。
だが、実際には都会の生活に慣れることができず、田舎に引きこもったというのも田舎にやってきた一つの理由だった。
母親と結婚したのも、母親を好きになったということだけではなく、都会と隔絶した世界で生きていきたいという切実な思いからだったのかも知れない。都会から逃げてきたという思いは義父から力強く感じるが、義兄に対しては反対だった。都会にいたという自負がだいぶ残っているようで、「都落ち」した父親に対して軽蔑の念を抱いているのも事実である。
――こんな田舎――
と、心の奥では田舎町というもの自体、あるいは、それ以上に田舎の人間を疎ましく思っているに違いなかった。
田舎町で暮らしてみると、心のどこかでそれまで感じていた田舎に対しての偏見が溶解しているのが分かっているようだが、根本の部分では納得できなかった。それは田舎を容認している自分がいることへのジレンマだと言ってもいいだろう。その感覚が思春期という微妙な精神状態に達した青年の意識と相まみえて、その状況を難しくしているのかも知れない。
義兄は、思春期に差し掛かるまで、女の子を意識したことはなかった。それは普通の男の子である証拠だともいえるのだが、思春期に差し掛かったことになって、急に女性を意識するようになった。
クラスメイトで気になる女の子がいるのだが、義兄はそれを、
――思春期になった証拠なんだ――
と思っていた。