生と死のジレンマ
「何となく分かっていたような気がするんだけど、自覚がなかったから」
という。
「自覚がないということは、それは意識していなかったということなんじゃないか?」
と聞くと、
「いえ、そんなことはないわ。私の中で自覚と意識は違うものだって思うの」
という言葉が返ってきて、
「ということは、その感覚がSの人特有の考えなんじゃないだろうか? もしそうだとすると、君は最初から意識していたということなのかも知れないな」
「でも、自覚ってよく他の人はいうけど、私には自覚という意識がないの。自覚っていったいどういうことなのかしらね?」
という。
「Sの人って、人をいたぶって快感を得るわけだろう? その時に自分にも相手の痛みが分かるという感覚はあるのかい?」
「私の場合はないわ。あくまでも私は自分がやりたいことをするというだけで、相手がどう思っているか考えたことはないわ」
と言った。
「だから自覚もなければ、前から感じていたのかどうかというのも分からないんだね?」
「そうかも知れないわ」
「君には、『他人事』っていう意識があるかい?」
「他人事?」
「ああ、自分に対して何かが起こっていたり、自分が他人に何かを及ぼそうとした時、自分がしているという意識がないことさ。だから痛みも感じないのかも知れない」
「そうなのかも知れないわ。でも、全部自分がしているという意識があるわけでもないの。どちらかというと、『やらされている』という感覚かしら?」
Sというと、自分の行為が相手を蹂躙しているものだから、すべてが主観的に考えていると思って浮いたが、どうやらそれも違うようだ。
Sというものを少しは分かっているような気がしていたが、少なくとも典子に限っては違っていた。
しかし、二人の相性はバッチリである。つまりSというものへの誤解はあったが、それを教えてくれた典子とは相性がピッタリだということであろうか。実に皮肉なことに思えてならなかった。
「あなたは、他人事に思うことが多いの?」
「僕はそうだね。これは他の人とあまり変わりないと思っていたんだけど、都合の悪いことは他人事に思うことが多い。だからいつも逃げ腰になってしまい、Mの性格が表に出てくるんだって思っていたんだ」
「それは間違っているかも知れないわ。私も実はSだとは思っているんだけど、Mの性格も十分に持っているような気がするの。あなたと一緒にいる時と、実際に好意に及んでいる時とでは、まったく違っていて、でも共通していることは、一つの出来事の間に、SとMが交互に顔を出していると思うことなの。あなたになら、そのタイミングは分かっていると思っていたわ」
と言われたが、矢久保にはさすがにそこまでは分からなかった。
ただ、言われてハッとした部分もあることから、まんざらの虚勢でもないことはハッキリしている。
そんな二人が矢久保が退院してすぐの最初の空襲警報が鳴ったその日、二人の間に何があったのか、思い出そうとしたが、数年経ってからは思い出せなくなっていた。矢久保は戦後のどさくさで記憶の半分を失ってしまったからであった、戦時中は一緒にいた二人だったが、あの日のどさくさで別れてしまったのだ。
記憶喪失
記憶を失った矢久保は、空襲警報が鳴り響いたその日、典子と別れてしまった。せっかく典子と身体を交わし、お互いの性癖を知ることで二人の間には今後の見通しがついたと思った矢先のことだった。
典子と矢久保は自分の性癖をずっと分かっていて、
「そんな性癖を分かってくれる人など、いるはずもない」
とお互いに思っていた。
二人ともいつも自分の中にもう一人誰かがいるような気がしていて、そのもう一人の自分に話しかけていた。返ってくる返事が自分のすべてだと思っていて、自分のすべてこそが、この性癖のすべてでもあるかのように思っていたのだ。
他人には相談できないことなので、他人は他人だと思う。だから他人事のように自分が感じていることには敏感だっただろうが、それを他の人がいう「他人事」という表現と一緒にされることを憤慨だと思っていた。
典子は看護婦になったのは、自分の性癖を理解していたからなのかも知れない。もっとも自分の中にSのような性癖があるなど思ってもいなかった。サディズムなどという言葉ももちろん知らず、人を苛めて悦ぶなどという感情の存在を認めることができるような女の子でもなかった。
幼女の頃はいじめられっ子だった。
子供の頃は女の子と遊ぶよりも男の子と一緒にいる方が多く、男の子数人と女の子は典子一人という紅一点の状態に、男の子たちよりも典子の方が興奮していたようだ。
男の子の方は、違和感があったにはあったが、それは相手を女の子として意識するというよりも、
「別の生物」
でもあるかのようなイメージだったのだ。
思春期前の少年少女時代というと、男の子よりも女の子の方が成長が早いと一般的に言われているが、それは肉体的な部分だけではなく、精神的な部分でも大きいのではないだろうか。
典子にも幼少時代、人に言えない過去があった。
矢久保の場合は、母親にいいようにされていたという過去があったが、典子の相手は、
「お兄ちゃん」
であった。
このお兄ちゃんというのは、義兄であった。典子の父親が徴兵を受けて、外地で勤務している時、疫病に掛かって亡くなった。それで未亡人になった典子の母親と結婚したのが、当時父親の上官をしていた大尉に当たる人であった。
彼は父親とは親友であり、中学時代から親交があったという。母親とも仲が良く、よく一緒に出掛けていたという。そんな義父には元々奥さんがいたらしいのだが、奥さんも理由はハッキリとは分からないが亡くなってしまったということで、妻を亡くした義父と、未亡人である母親とがそのまま結婚したということだった。
時代が時代なので、障害もそれなりにあっただろうが、何とか結婚にこぎつけることができたことで、典子には義父の連れ子となる義兄ができたというわけだ。
義兄は典子よりも三つくらい年上だった。典子がまだ十歳にも満たなかった頃、中学に進学した義兄だったが、身体が弱く、病弱であった。それを義父は、
「母親の遺伝なのかも知れないな」
と言っていたのを聞いたことがあったので、義父の奥さんは、生まれつき身体が弱かったのかも知れないと感じた。
身体が弱かった義兄は、いつも一人でいた。家にいては本を読んだり、何かを書いていた李と、文学青年なのではないかと思えるような雰囲気だった。
典子は義兄に対して、どこか近寄りがたい雰囲気を感じていたが、そのひ弱さと文学青年的なインテリなイメージに、どこか惹かれるものを感じていたようだ。
決して自分から近づいてはいけないという思いを抱いていたにも関わらず、一人でいる義兄をいつも目で追っていた。襖の影から見つめている様子も伺えたが、その雰囲気を隠すのは典子は下手だったのだ。義兄にはすぐにバレてしまい、義兄の方では、わざと自分が見られていることを分かっているという素振りを見せていた。
典子はそんな様子に興奮を覚えていた。