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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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おその惣助物語(五話まで)

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源五郎がある日のこと、甚平屋の前を通り掛かり、一杯やろうか迷っていると、辻道の向こう側にある木の影に人影を見つけたのだ。それが惣助であった。源五郎にはすぐにわかったので、惣助を一緒に誘って差し向いでやろうかと近寄ろうとすると、惣助の様子がどうもおかしいと気づいたのだ。


惣助は、じっと甚平屋の中を覗いている。どうやら、店の中にある縁台に座って客と話をしている、おそのを見ているらしかった。しかもその目つきが、ただごとではない。切なげに、悔しげで、また、夢うつつのようだった。それは間違いなく、惚れた女を影覗きする男の目であった。


それで源五郎は目星がついて、しかし団子屋の一人娘と代々の畑を持つ農夫では、いずれにしても縁が無かったと諦めるしかないであろうと、惣助のことを少しだけ哀れんでいた。


「どした、源さん」

惣助の気持ちを思い返していた源五郎は、おそのに声を掛けられてはっとして、「いんや、なんでもねえだよ」と笑った。


結ばれない縁ほど、人は諦めきれない。そのことを考えながらも、それからおそのと源五郎は楽しく話した。




果たして、惣助はおそのに惚れていた。しかし、諦めてもいた。惣助は馬鹿がつくほど真面目なので、「惚れた女が居るならば、生涯他の女房など持つもんか」と思い詰めて、源五郎の睨んだ通り、独り身で通すつもりであった。

毎日惣助は畑仕事をし、目の前に浮かぶようなおそのの美しい笑い顔に、哀切な慕情を捨てきれず、かと言ってそこから逃げる気もなく、一生影からおそのを見守りたいと思っていた。もちろんおそのに婿が来れば笑って祝福するし、子が生まれれば自分の畑で採れた瑞々しい大根や人参を食べて、元気に育ってほしいとまで思った。

すでにそこまで深くおそのを愛しておきながら、惣助は「おそのさん」と口にしたのは、一度だけである。

それは、いつかの夏の暮れ方、おそのが早足で歩いていたところを、ちょうどそばの店から出てきた惣助が見つけた時だ。

その時、おそのは急いでいるあまりどぶ板が外れていることに気づかず、そのままでは落ちてしまうところだった。

「おそのさん!」

慌てて惣助がおそのをなんとか抱きとめたが、おそのからしてみれば後ろから急に掴みかかられたと思ったのだろう、「きゃあっ!」と声を上げた。でも、「どぶ板がねえだ。落ちるでよ」と惣助が小さく言うと、おそのは顔を真っ赤にして、慌てて礼を言った。

「ごめんなあ、どうもねえ、あんがとさん。あら、惣助さんだったべか」

「いんにゃ、よかっただ」

「んじゃ、こんで、あんがとさん」

「ん」

二人はそれきり言葉を交わすこともなく、農民の暮らしではそうそう団子屋になど行けない惣助は、たまに辻道の向こうに生えた老松の影から、おそのの姿をちらと見ると、見つからないうちに家へと帰るのだった。




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