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短編集80(過去作品)

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 江崎省吾には最初に読んだ小説でそれを感じた。まだ自分に感性の有無などを感じることのなかった頃だが、
――何と大人の小説なんだろう――
 と読み込むたびに感じさせられた。
 エロチックなシーンも、実にうまく表現されていて、小説の中でのエッセンスを感じることができた。
 小説というのは彼に限らず、同じ作家であれば、どうしてもその人の個性が共通しているように見受けられる。中にはジャンルが確立していて、そのジャンルの第一人者としてそれ以降も君臨し続けるであろう人がいる。もちろん、江崎省吾も同じであって、影響を受けたとはいえ、自分の個性だけはしっかり持っていると思っている園部も同じである。そうでなければ小説家として生きていくことなどできないだろう。どこかに自分の特徴を持っていることで、表現できる世界を読者は創造できる。
 園部の小説は過去の自分と現在の自分を比較するような話が多い。学生時代の自分を顧みることで、現在の自分を見つめる。顧みた時の自分を思うと、現在の自分を思っていた時のことが思い出され、時間の感覚が他の人と違うのではないかと感じるのだ。
 そんな話をよく書いている。シチュエーションは違うが、同じような話でもいいのだろうかと悩んだこともあった。しかし、感性をいかに広く表現するかが、自分の仕事だと思うようになって気が楽になった。これも江崎省吾の小説を読んでいて感じたことだ。
――気配を感じさせない小説――
 このシチュエーションにはかなり陶酔したものがある。自分のまわりに、気配を感じさせずいつもいる人がいるのではないかと感じるだけで気持ち悪い。皆に見られているのに意識されない人物、石ころのような存在の人物が、きっと皆一人一人に存在しているだろう。
 いや、自分自身が他の人の「石ころ」になっているかも知れない。もしそうなら、相手を見ているのに相手から見られていないということに気付いていない。とても危ないことだ。
 江崎省吾の「事故多発地帯」という小説のテーマはまさしく、石ころのような人物の存在だった。しかも、その人物が現れる時間が一定している。夕方の魔物が現れると昔から恐れられている時間。この時間にモノクロになる一瞬だけ、石ころの存在に気付くのだろう。
 本人からすれば気付いていることをいつも分かっているとは限らない。分かった瞬間、驚きのために事故が発生するという理屈だったが、どこまで信じられるものだろう。園部は架空の話として読み流すことは、どうしてもできなかった。同じような経験をしたからだろう。
 それはいつのことだっただろう。最近だったと言われればそんな気もするし、かなり前だといわれれば、そうかも知れない。いや、頻繁に感じていることならば、納得もいくのではないだろうか。それだけ漠然としたものである。
 少なくとも園部にとって江崎省吾という作家は、いつも身近に感じられるが、その気配を感じたことはない。編集者ですら、その存在を感じることができないのだ。まさしく神出鬼没である。
 最初に作品に触れた時もそうだった。高校の頃からいろいろなジャンルの本を読むようになった。有名になった作品から作者を選び読むこともある。まったく違うジャンルの作者を平行して読むこともあったくらいだ。ほとんどセリフばかりで、ストーリー展開が分からなくなることもあった。
 園部が小説を書けるようになったきっかけと微妙に時期がダブっているように思える。それまでは、
――結論から見ないと気がすまないタイプだ――
 そう感じていたこともあってか、ミステリーなど、犯人が分かってから読むこともあった。どんなテレビ化された作品を後から読むと、さらに深みを感じる方である。
 深みのある話になかなかぶち当たらない。一度読んでから読み直すこともなく、あまり感動を覚えることなく過ごしてきたが、それは分かりやすい小説を好んで読んでいたからだろう。
 小中学生が読むような小説、ストーリー展開が早く、テンポがある話は実に読みやすいが印象に残りにくい。なまじ難しい単語を並び立てる小説も辛いが、読みやすいのも味気ない。結局本をあまり読まない時期が続いた。
 だが、小説を書きたいと漠然とだが思い始めてから、どんな作風になるかを想像することもできなかった。自分の目標とする作家が見つからないからだ。
 書きたいと思うきっかけとなった作家がいた。中学の頃に似たような小説を書ければと思い書いてみたこともあるが、どうしてもマネになってしまうようで嫌だった。友達に見せたこともあり、
「なかなか面白いじゃないか」
 と言ってくれたが、そう言われれば言われるほど自分がマネをしているように思えて、自分の殻に閉じこもってしまう。意識することはないと思っていると書けなくなるもので、それが原稿用紙への偏見となり、書けるようになるまでに苦労があった。
 漠然と原稿用紙に向かってシャープペンシルを指で回していると、反対の指にはいつもの癖が出ている。ハッとして我に返るのだが、その間にどれほどの時間が経ったのか分からない。
 余裕という言葉を感じたのが江崎省吾という作家の小説を読んだ時だった。クラシックの流れる喫茶店で彼の本を初めて開いた時、喫茶店の明るさを感じたのだ。白壁の映える表とは違って、中は木目調でシックな雰囲気だ。本を読んでいて集中し始めると、まわりの明かりが暗くなって感じてくる。決して明るくはならないのだ。目の焦点が合ってくるからで、少しずつ遠く小さく感じるようになる。
 まわりの人の気配を感じることもなく、ザワザワとした音が耳栓をしているかのように聞こえなくなる。まるで園部が小説を書けるようになった時と同じではないか。
 そういえば小説を書けるようになって、
――以前にも同じような気持ちになったことがある――
 と感じたものだが、あまりの嬉しさに真剣に考えることもなかった。人間心底嬉しいと何事も深く考えないようになるものだ。あまり深く考えないような時代はいつが最後だっただろう。
 主人公が二人という小説は、なかなかお目にかかることはできない。読み手は誰か一人を中心に見ている方が読みやすいものだし、あまり突飛な発想は、ミステリーで伏線もなくいきなり大団円を迎えるようなものである。
 ミステリーを書いたことはないが、ミステリーにはいくつかの法則が存在するのと同時に法度も結構あるようだ。それだけパターンが確立されているため難しいのだろう。
「ミステリーなどで出てくるトリックなどは、たいてい出尽くしています。あとはバリエーションの勝負なんですよ」
 ともっともらしい評論をする学者がいるが、それを聞いてミステリー作家はどう思うだろう?
 ミステリー作家というと小説家の中でも特殊な人種だと思っている園部としては、
「そんなセリフをいちいち気にしないでいてほしいな」
 と思わないでもない。びくともしないような性格、それが園部にとってのミステリー作家なのだ。
――きっと江崎省吾なら、鼻で嘲笑っていることだろう――
 そう思えてならない。ミステリー作家よりもミステリー作家というイメージが強く、そう感じることは、
――自分にもミステリー作家としての素質あるのでは――
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次