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短編集80(過去作品)

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 これが簡単なようで難しい。自分の世界を見つけるには自分というものを知らないとえきることではない。
 江崎省吾という作家の小説を見ていると、いくつかのパターンが見え隠れしているのだが、そのバランスが実にうまく取れていて、作家を目指していた頃の園部には新鮮に写った。
――こんな話を書き続けられればいいな――
 出会った時期が秋だったのも、園部にとってよかったのかも知れない。
 秋という時期は寂しさを募らせる時期でもあるが、夏の間に疲れた身体を癒すにはちょうどいい時期だ。気持ちに余裕を持つことの大切さを感じることができる時期でもある。何事もゆっくり考えられる時期で、本当に時間がゆっくりと過ぎているのではないかと感じられる時期でもある。
 朝が早起きになった。ギリギリまで寝ていることが一番疲れが取れると思っていたが、それも気持ちに余裕を持つことで、時間の大切さを思い出した。秋は夜長というだけに、長くなった夜をいかに過ごすかということを考えていると、本当に長く感じられるから不思議だった。
――まさしく読書の秋だ――
 芸術を堪能できる時期である。
 江崎省吾という作家にも秋が似合った。爽やかな風、ススキの穂が風に遊んでいる。静寂の中で耳を通り抜ける風は、まるでほら貝を耳に当てている時のようだ。
 読んでいて目を瞑ると広がる光景を感じることができるのは、江崎省吾の小説を読んでいる時だけだ。小学生の頃読んだミステリーの光景も思い浮かべようとしたが、時代が戦後の喧騒とした時代なので、思い浮かべるにも限度がある。あくまでも映像が映し出す光景が浮かんでくるだけで、実際に見たものでないとなかなか受け入れることができない園部には想像はできても、瞼の裏に映し出すことはできなかった。
 だが、それだけに想像が想像を呼び、より以上の空想を浮かべることができた。一緒にクラシックを聞きながら読んでいたのだが、ホラー性をさらに掻きたてるには十分であった。
「江崎省吾という作家がいますね」
 自分の担当である編集者の佐竹と、江崎省吾について話したことがあった。
「ああ、先生が影響を受けられたという作家ですね。私は担当したことがないのでハッキリと分からないんですけども、かなり風変わりな作家みたいですね」
 頭をかしげているように見える佐竹を見つめながら、
「変わっているって、作風以外にですか?」
「ええ、そうなんです。あの人の写真はあるんですが、実際に会ったことのある人はいないんですよ。原稿はメールで送ってきますし、電話しても何か耳鳴りのしそうな音が後ろから聞こえていたりして、とにかく不気味なんですよ。誰にも会わない作家として有名ですね」
「作家や芸術家はどこか変わったところがある方が多いですからね。編集者の方も大変でしょう」
 ニヤリと一瞬佐竹が微笑んだ。
「もっとも、この私を含めてね」
 わざと一拍おいて返事をしたが、それがどんな影響を与えたのだろう?
「そうなんですよ。作家の先生って、皆自覚していると思いますし、まわりが見ているのと同じところが変わっていると思っているかも知れない。でも、それでも本当に同じように感じているのかが分からないんですよ。私などが作家の先生とお話をさせていただいていつも感じていることですね」
「私にもですか?」
「ええ、もちろん」
 歯にモノを着せないような喋り方があまりにもストレートすぎて、普通の人ではついていけないだろう。会話を聞いているだけでは分からない二人だけの雰囲気があたりを包み、どこか異質な空気を漂わせている。少し濃い空気を感じるのだ。
「江崎省吾の小説には秋の雰囲気が多い気がするのですが、いかがですか?」
 と園部が感じたことを話した。
「私もそれを感じます。かなり異質な小説なのに爽やかさを感じるのは、秋の透き通るような風を感じるからだと思っているんですよ。季節感をうまく使う作家の先生はいますが、江崎省吾の場合は、小説の雰囲気が季節感を作り出すんじゃないでしょうか? だから広範囲に読者が多いんだと思いますよ」
 確かに江崎省吾の小説は、中学生から老人までに指示されている。だが、本当に本人がそれを望んでいるのだろうか?
 江崎省吾に会ったことはないが、彼はきっと園部と同じような考え方のように感じる。見るものを少し違った角度から見ることが執筆への第一歩だと思っている園部は、その考えを江崎省吾の小説から学んだ気がする。
 色にしてもそうだ。信号の一番左の色を青だという人もいれば緑だと表現する人もいる。
また同じ人でも場所や時間が違えばまったく違う色に感じないとも限らない。人間の目とはかくもいい加減なものである。
 動物や植物を見て、人間との違いを感じていながら、まるでそれらの存在をまったく感じなくなる時がある。そばに落ちている石ころに気付かないように、まわりにいる動植物の存在や気配をまったく感じない。そんな時にふと色を感じなかったりする。匂いや音もしかりだろう。
――色を感じない時間――
 いわゆるモノクロに見える時間が一日のうちに一瞬存在するらしい。風がまったく止んでしまう「凪」の状態のごとく、モノクロに見える時間帯、昔から魔物が出る時間帯とも言われ、恐れられているようだ。
 事故が多発する話が江崎省吾の小説の中にあった。まさしく魔物が現れる時間帯として描かれていて、最後はぼかしているため。本当に魔物の仕業なのか謎である。雰囲気だけを醸し出し、最後は読者に想像させる。それが江崎省吾という作家のテクニックである。
――見習いたい――
 と思っているが、どこまで近づけたことだろう。
 その小説だけに限らないが、江崎省吾の話には「気配を感じない」という話が多いのだ。
――生きているのか死んでいるのか分からない――
 というような結末で、しかもぼかしているので、一度読んだだけで理解できるものではない。事故が多発する話でもそうだった。
 最初に事故が多発するあたりの情景や付近を通る車の量などの話から始まる。田舎なのになぜか車の量が多いのは、きっと脇道を通ることで近道になるからだろう。これも彼のテクニックなのかハッキリと明記されていない。
 読んでいて情景が浮かんでくる。園部の家の近くにも同じような場所があり、いつも見ている場所を想像できることが、彼の作品に陶酔できる一番の理由である。
 そう、彼の作品に出てくる情景は園部のまわりに非常に酷似したところが多いのだ。
――謎の作家とされる園部は、意外と近くにいるのではないか――
 と錯覚させられるほどである。
 しかしそのおかげで自分の目指す道が見つかったのだ。江崎省吾に感謝するべきであろう。
 江崎省吾を意識すること、それは自分が作家としての自覚を強固なものにできそうだと思うことでもある。同じような作風が思い浮かぶのも、環境が似ているからだろうか。
 同じような人間性を持つには、生まれ持ったものに育った環境がプラスアルファされるからだと思っている。それはある意味感性にも通じるもので、やはり生まれ持ったものが土台となっているだろう。だが、それはなかなか表に出るものではなく、育った環境が酷似していればそれだけでも同じ感性を持っていると思える。
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次