短編集80(過去作品)
大学の卒業前に、会社訪問した時の先輩が教えてくれた。自分もその一年前に会社訪問で先輩に教えられたと言っていたが、そのおかげでかなり気が楽になったらしい。
「嘘でもいいんですか?」
本当なら何も聞かずにその日は終えるつもりだった。質問するとしても会社のことしかないだろうと思っていただけに、自分でも不思議な気持ちになった。しかし心構えのことになれば別で、どうしても聞いてみたかったのだ。
「ああ、嘘でもいいんだよ。最初から自信なんてあるわけはない。だけど、嘘でもいいから持っていれば、自信というものがどれだけ大切なことか分かるというものだ」
「そんなものなんですかね?」
頭をしきりに傾げるしかなかった。
「そういえば去年の私も今の君と同じような質問をして、同じように頭を傾げたものだよ。きっと無意識なんだろうね」
来年になると今度は自分が訪問者に同じようなことを話してあげ、そしてその時の自分がしたのと同じ光景を見ることになると信じて疑わなかった。もちろん、予想は当たったが……。
――まるで昨日のことのようだ――
後輩が訪れてきて、目の前で同じ行動をされると、目の前にいる人がまるで自分に見えてくる。そしてその光景は実にごく最近に見たように思えるのだ。
それだけセンセーショナルな記憶なのかも知れない。しかも前にいる人が自分に見えてくる。そんな経験はそれまでにはなかったことだ。
――あの時の自分はどんな気持ちだったのだろう?
相手の顔を凝視することができずに、何もかもが新鮮でありながら、恐さを感じていた。入社一年も経たないのに、目の前にいる人が眩しく見えてしまう。可能性という言葉を一番感じる相手であろう。
自分に自信なんてとても持てるものではない。嘘でもいいとなるとなおさらだ。
仕事をしていると、自分が義務感だけで生活していることを思い知らされる。食事も仕事も、お風呂も、すべてが義務感。睡眠時間まで義務感を感じる。
そんな生活が最初は嫌で嫌でたまらなかった。しかし、それも慣れてくると自分の性格を感じるようになる。
千尋が現れたことで、自分の性格が把握できるようになったような気がする。何事にも従順に見えて、しっかり武雄の性格を把握している。まるで以前から知り合いだったかのように……。
千尋は時々虚空を見つめていることがある。まるで武雄の後ろにいる誰かを見つめているのではないかと思うほどだ。そんな時の千尋がいとおしい。一体誰を見つめているというのだろう。
気にならないといえば嘘になるが、それよりも一番妖艶な表情になるのが一番嬉しい。何を想像しているというのだろう。だらしなく開いた口元に唇を重ねたくなる。
唇を重ねると、黙ったまま目を閉じる。甘い香りが口の中に広がって、頭から次第に意識が消えていく。夢の世界に入っていくようだ。
そんな時でも時間を気にしていたりする。いつも義務感で生活しているからだろう。時間の観念にはうるさく、規則的な生活を崩すことを極端に嫌う。それこそが自分に自信の持てない証拠というものだ。
武雄にとっての弟の存在感が永遠のものとなってしまった。
弟に何か聞きたいことがあったのだが、それを確認することができなくなってしまったのだ。
――聞きたいこと――
それはずっと以前から考えていて、なかなか聞くことができなかったことだったように思う。思い出そうとしても思い出せないだけに苛立ちを覚えるが、二度と聞けないと思うとそれだけで、記憶の中に封印してしまおうという意識が働くに違いない。
自分では意識がない。いわゆる潜在意識というものだ。どうしてしまいこもうとしてしまうのか。それは明らかに二度と聞くことができないことだからだ。
ではなぜ聞くことができないのか?
弟は三年前に家を出て行った。女の人と一緒だと聞いたが、弟にそこまでの行動力があるとは、さすがにビックリだった。
弟にとって親は絶対だったはずなのだが、その弟を動かすのだから、女の力というのも偉大なものだ。今までにたくさんの女性と付き合ってきた武雄だが、今までに自分を突き動かすことのできる女性は、結婚願望の強かった彼女だけだろう。さすがに千尋にそこまで感じることはない。一緒にいるから分からないだけかも知れないが、駆け落ちなどという発想は起こりようもなかった。
弟は実に見事にいなくなった。それまでまったくそんな素振りもなく、普通に誰とも接していたのに、親も兄である武雄にも分からなかった。だが、たった一人だけ分かっている女性がいたのだ。
「弟さん、最近変よね」
近所に住んでいる幼馴染の良子が話していたことがあった。
「どう変なんだい?」
「よく分からないんだけど、何かを悩んでいるように思うの。兄であるあなたは感じないの?」
思わず良子の顔を見返した。ショートカットでボーイッシュなところが、今まで女性として意識させなかったので分からなかったが、よく見ると可愛らしさがある。笑うとエクボが浮かんできそうで、顔の肌などスベスベである。
幼馴染でずっと一緒だったことも、彼女を女として感じさせないところだった。もちろん弟も同じだったに違いない。いつもからかってばかりいて、普通の男友達と接しているのと変わりなかった。
良子はどうやら弟のことが好きだったようだ。
「昔はあなたのことが好きだったのにね」
と言いながら武雄の手をつねった。
「今は?」
「雅夫君も素敵よね」
「それは乗り換えたってこと?」
「人聞きの悪いこと言わないで。あなたが私の視線に気付かなかったからでしょう? それとも今私が告白したら付き合ってくれる?」
ちょうど結婚願望の強い彼女と付き合っていて、ごたごたしている頃だった。そんな戯言に付き合っている暇などないと感じたこともあって、
「何だよ、だったら俺にそんなことわざわざ言わなくてもいいじゃないか」
と少しきつめに話した。
含み笑いを一瞬浮かべたように思ったが、今度は情けなさそうに涙目に変わっている。きっとその時に精神状態が落ち着いていれば良子の気持ちを受け入れたかも知れない。それほどその時は精神状態が尋常ではなかった。
そんな良子もどこかにいなくなった。弟が家を出てから半年ほどしてからだろうか?
良子の場合は、予測がついたかも知れない。いなくなる前などは顔色は土色になっていて、以前感じたスベスベな顔肌からは想像もつかない。
良子がどこかに行ってしまうとさすがに武雄もショックだった。弟だけならまだしも、自分の身近な人が急に二人もいなくなるなんてどうかしている。まるで夢を見ているようだった。
――次は俺じゃないかな?
などと考えてしまうのも無理のないことだ。消えてなくなる夢を一体何度見たことだろう。
「消えてなくなればいい」
そんな言葉をよく二人から聞いたものだ。もちろん違う時に聞いたのだが、
「そんなに軽々しく消えてなくなればいいなんて言うもんじゃない」
と諌めたものだが、まるで口癖のように無意識だったようだ。
「別れにはエネルギーが伴うんだな」
これも二人の口癖だった。だが、これに関しては武雄も同意見だったので、同じように頷いていたものだ。
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次