短編集80(過去作品)
役得なのだろうか? 弟は、口にすれば怒られるだろうと思えるようなことでも口にする。甘えに見えるようなことでも弟の口調は違うのだ。きっと武雄が言うと怒りが飛んでくるに違いない。そんな毎日から逃げ出したい衝動に何度も駆られていた。
しかし、それがいつの頃からだろうか逆転していた。高校になると急に太り始めた弟は歩き方からすべてがノッソリと見えてくるのだ。それまで女性にモテていたのが嘘のようである。
「俺は自分を悟ったかも知れない」
弟はそんなことを口にしていたが。それからはあまり目立つことのない性格になった。元々目立つことをする方ではなかったが、さらに気配を消そうとするのだ。
だが大きくなった体から気配を消すのは楽ではない。それでも、まわりからあまり相手にされないようなタイプになり、石ころのような存在に変わっていた。
「これで気が楽になった」
それまでの何が重たかったのか分からない。とにかく気が楽になったということは、背負っていた重たいものがなくなった証拠である。それでも親にだけは気を遣っていて、老いていく親の面倒をしっかりと見ていた。
武雄の出る幕はない。
「お前は親を何だと思っているんだ」
と言われるが、弟がいる限りどうしようもない。まわりの老人に対しては気になっていたが、それでも最近はまわりの人を気にすることがなくなってきた。
――人生が見えてきたか?
またしても、いろいろな発想が頭に浮かんでくる。その一つ一つを整理できない限り、まわりを見ることなどできない。そんなところでも弟の存在が、武雄自体に大きな影響を与えていたのだ。
そんな弟が家を出たのが五年前だった。まるで自分の存在を消しているかのごとく、毎日を平凡に、寸分の狂いもなく規則的な生活をしていた。仕事も幸い忙しくなく、平凡な生活ができる唯一の人間だったのかも知れない。
――平凡って何だろう?
時々考えることがある。自分の存在感を自らが消しながら生活しているように見えるが、きっとそんなことを考えていては平凡な生活を送るなど無理に違いない。意識している限り平凡な生活など無理というものではないだろうか。
意識があるうちは、なかなか近づくことができない。どこかの宗教ではないが、さとりを開くには意識を自分の外に置く必要があると説いているのを聞いたことがある。宗教自体には嫌悪感以外感じないが、その話だけは頭に残っていた。
存在感を消すのも難しいことだ。息をしている以上、体温があるだけでも気配を表に発散させている。忍者の修行などで気配を消す修行があるというが、一番難しい部類だったことは想像できる。
――影を感じなくなったら、存在感も薄れてきている――
弟がいなくなる前に話していた。それを偶然聞いたのだが、その話を聞いた時、思わず背筋が凍りつくように思えた。
きっと目の錯覚だったのだろうが、弟の足元から伸びているはずの影がなかったのだ。その日は快晴で、影を遮るようなものなど何もない場所だった。瞬きの瞬間だけだったが、思わず背中の汗が引いていったのを覚えている。弟が家を出て行ったのは、それからまもなくだった。
弟が家を出てからの武雄は、自由なはずだった。意識しないようにしても、いくら気配を消そうとも、自分にとって弟という存在は大きなものだった。
自分の中の一部が抜け殻のようになっているのを武雄は気付いていた。弟が出て行ってポッカリと開いた穴だった。
――この大きさが自分にとっての弟の存在感――
そう考えると、それが大きいのか小さいのか分からなかった。
空から落ちてきた隕石でできる大きなクレーター、しかし、実際に行ってみると、握りこぶしほどの石だったりすることもあるようだ。衝撃の強さが存在感にもあると思っている。
ポッカリ開いた穴は自然に埋まっていくものだった。人間の治癒能力によるものだと考えれば、その穴は病だったのだろうか。いや、その穴を埋めてくれるような人が現れたからである。
それまでの武雄は、女性と付き合っても長続きしなかった。長続きしてもただ長く付き合っていたというだけで、気持ちの盛り上がりには欠ける。結果自然消滅したのだが、それでも心の中に深く残っているのは、長かった時間が彼女を形として自分の気持ちの中に封じ込めたからだろう。
そんな心の隙間を埋めてくれた女性。それが千尋だった。最初はそれほど意識したわけではない。何がきっかけだったかも覚えていない。だが、気がつけば声を掛けていて、デートに誘っていた。これほど自分が積極的な男性だったなんて、一番本人が驚いている。
寂しかったのだろうか?
千尋は後になってハッキリと、
「確かにあの時は寂しかったわね」
「僕はどうだったんだろう?」
頭を掻きながら話すと、
「あら? あなたも寂しそうに見えたわよ。でもね、今のあなたを見ていると、いつも寂しそうにも見えるんですよ。きっとあまり表情や雰囲気が変わらないタイプなのね」
その言葉は嬉しいようで、少し寂しいようで複雑な心境にさせてくれた。真剣に自分を見つめてくれているようで嬉しいのだが、その目が冷静すぎるのも、寂しい気がする。
「千尋さんは、今までに何人ともお付き合いされたことがあるんでしょう?」
「ええ、数人だと思います。その中には、本当に付き合っていたと言えないって感じの人もいたりしましたね。ただ一緒にいるだけで、まわりから見れば付き合っているように見えるんでしょうけど、不思議なものですね」
千尋の話は何となくだが分かった。自分も付き合いが長かったからといって印象に残らない人もいたし、数ヶ月で別れたのに、別れてからの方が存在を大きく感じる女性もいる。それが男女の仲と言われるものなのだろう。
「遠くて近きは男女の仲」
と言われるが、適当な距離が一番心地よい。昼下がりのお茶を楽しめる関係、そんなものに憧れていたりした。
千尋と仲良くなればなるほど、適当な距離を感じる。千尋が意識して距離を保っているようにも見えるが、間違いではないだろう。
出会いもそういえば不思議だった。
喫茶店で本を読んでいた武雄の横に千尋が座ったのである。他に開いている席がなかったわけでもないのに、横に座ったのである。
「あの、こちらよろしいですか?」
思わずあたりを見渡すが、空いているのは明らかだった。
「あ、いいですよ。どうぞ」
「では失礼して……」
そういって隣に座った。横に座ると漂ってきたのが柑橘系の香り、肌を通して漂ってくるようで、甘さも同時に感じられる。妖艶な雰囲気を早くも感じていた。
武雄があたりを見渡しているのに気付いたのか、
「すみません、いつもこの席に座るもので、ここがシックリとくるんですよ」
「ああ、そういうことですか、誰にでもありますからね」
武雄も、今では馴染みとなったその喫茶店、最初の頃から座る席は決めていた。そこに人が座っているのを見ると、コーヒーを飲むつもりできたのに中に入らず帰ることもあった。その時に座っていた席がそのまま武雄の指定席になっている。
「誰もが指定席って持っているんじゃないかしら。そこにいないとシックリこなかったりしますよね」
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次