短編集80(過去作品)
言われて驚くほど竜田はウブではない。何となく分かってもいた。男性恐怖症の女性を実際に抱いたことはないが、男性に対してやたらと敵対心をあらわにしている女性ほど、男性に対して恐れを知らないものだと、友達が言っていた。
その通りだと思う。
美佐子には男性に対しての敵対心など微塵もなく、あるのは従順な雰囲気だけだ。それは母親に感じたものと同じである。
小学生時代の自分を思い出していた。
いろいろなことを考えるあまり無口になっていて、それをまわりからは、
「要領が悪いやつ」
と見られてしまっていた頃の自分だ。
数字のようなものが頭を巡っていて、自分の中で組み立てたもの以外は信じられないと思っていたのだ。例えば宿題やテストのように先生から「やらされている」というイメージがある以上、なぜしなければならないかが先に頭の中にあって、反発心を煽ってしまう。結局宿題もテスト勉強もすることなく、怒られるだけだったが、怒られている時には、きょとんとしていただろう。
「何で理解できないことをしないといけないんだ」
と言いたいのだが、言い訳すると、今度は相手から開き直って捲くし立てられる気がして仕方がなかった。そんなことはないのかも知れないが、もし捲くし立てられていたら、二度とその人と意見を言い合うことはないだろう。
いや、その人に対してというだけではなく、他の人に対してもまったく無口になってしまう気がするのだ。結局何も言えないのであれば、わざわざ波風を立てるようなことはしたくなかった。
美佐子が無口になった時、小学生時代の自分を見ているような気がする。
いろいろなことを考えているからかと思っていたが、思い出そうとしても思い出せない何かがあるように思える。それがトラウマとなって自分の中に残っていると感じている。
あれから竜田は上野という友達に出会い、いろいろ考えながらでも会話ができるようになり、思ったことを素直に口にできることを覚えた。自分がどういえば相手がどういうリアクションを示すだろうということを徐々に考えられるようになってきた。
相手の無邪気な顔を見るのが一番好きだった。そのためにはなるべく会話の絶えないような環境を作ることが大切だと思っている。
しかし実はそれが一番難しかった。女の子と一緒にいて、最初は面白い話などが次々に出てくるのだが、いざ話題がなくなると、あとはどうしていいか分からない時があった。
相手の顔を見ていると、何かを求めているように見え、思わず生唾をゴクリと飲み込んでしまう気分になる。テレビドラマの中だけのことかと思っていたが、実際にその環境に置かれると、本当にしてしまうんだと考えていた。喉が渇いて仕方がないだけなのだ。
そんなことを考えられるほど気持ちに余裕があったのだろうか? いや余裕がないからこそ、違うことを考えたいと思う気持ちが成せる業なのかも知れない。
美佐子にも要領の悪さを感じたことがある。
今まで自分のまわりで、要領の悪いと思うような人を感じたことがなかったのは、
――自分のような要領の悪さを持った人はいない――
と思ったからだろう。要領が悪く、もっと表に出している人はいっぱいいるに違いないが、いつも深く考えすぎるために、行動に移せないような要領の悪さを持った人をあまり感じたことがなかったからだ。
――人の振り見て我が振り治せ――
と言われるが、まさしくその通りだと感じている。
人の気持ちを考えるあまり、自分がどうリアクションしていいか分からない女性はいっぱいいるだろうが、自分の中で納得できずに殻に閉じこもってしまうような女性に出会うことはあまりなかった。
何に納得できないというのだろう。納得できないことをあまり表に出そうとせず、そのために、従順な雰囲気だけが表に出ている。男性から見れば、
――放っておけないようなタイプ――
に見えるのだろうが、なぜかあまりいい男性と出会ってきていないようだ。彼女の口からハッキリと聞いたわけではないが、彼女を抱いた時に感じた震え、そして男性恐怖症だと告白した彼女の表情には、なぜかサバサバしたものが浮かんでいた。
いつかは、
「言おう言おう」
と、思っていたことだろう。何となくあったわだかまりを吐き出すことができたサバサバした表情だったのかも知れない。
呪縛が解けたと言っては大袈裟だろうか、確かにその時は呪縛のようなものを感じていたのだが、その場の雰囲気が感じさせたようにも思える。
「男性恐怖症だってことは、他には誰も知らないの?」
「知らないと思います。自分ではなるべく隠すようにしていますから」
彼女から言われるまで、何となく影があると思っていたが、その理由を分かりかねていた。彼女の言うように、きっと他の人には分からないだろう。どこか殻に閉じこもった変な女性と思っている人も少なくないだろう。知り合っていなければ竜田も見ただけでそう判断したに違いない。
男性恐怖症というと、女性にとっては大きなトラウマである。隠そうとしても隠せないものだろうが、それだけに普段隠せているということは、何かの拍子に出てくると恐い気もする。
「男性恐怖症って、男性全体に対して何かあるの? それとも個人的に?」
聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。美佐子の顔色は見る見る失せていき、土色に変わっていった。視線はあらぬ方向へと向いていて、虚空を見つめている。
――待てよ――
そういえば美佐子のこの表情、どこかで見たことがある。よく見ると懐かしさで思わず微笑みかけたくなる顔なのだが、きょとんとした表情が似合う顔立ちなのかも知れない。
きょとんとした表情が似合う女性を好きなのはウスウス気付いていた。あまりキリッとした表情で見つめられるより、包み込まれるような表情に安らぎを感じる。それが美佐子であったということだ。
包み込まれるような暖かい表情には甘さが漂っている。香りはきんもくせい、だがそれだけではないのだ。
柑橘系のエッセンスが利いた香り、時折夢見心地から一瞬現実に返ることがある。その時に感じるのが柑橘系だ。
ベッドの中でのほのかな香り、思い出そうとしても一瞬にして消えてしまうのは、夢から現実に返りたいと思う気持ちが一瞬だからではないだろうか。
母に対して今感じている想い、それは申し訳ないという思いだった。それが何を意味しているのか思い出せないのだが、それも、一人暮らしをするようになるまで、
――早く家を出たい――
母の面影の残った家から出たいとずっと思っていた。しかも父親の体たらくなど見たくない。さすがにいつまでも体たらくを続けられるはずのない父はしばらくして普通の生活に戻ったが、どうかすると荒れることがあった。それが竜田には耐えられなかった。
竜田だけではないだろう。きっと誰もが同じ境遇になれば、逃れたいと思うのも人の常というものではないだろうか。そう考えると、いなくなった母の気持ちも分かるというもの、最初は恨んだりしたが、今では心の底で会うことを望んでいるのかも知れない。
「私、父親に対しておかしな感情があるの」
何度目かに愛し合ったベッドの中で美佐子が語り始めた。
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次