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短編集80(過去作品)

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 彼女の傘に入り、踵を返して歩き出したが、途中歩く先にはホテル街があった。偶然だったのだが、ネオンサインに映し出された美佐子の目はさらに潤んでいるように見え、もう、こちらを振り向こうとはしない。
 ゆっくり歩いていて、腕を組んでくる美佐子は、雨の中で濡れているネコのように震えていた。ひんやりとした冷たさがそれを思わせ、しっかり抱きしめながら歩いていた。
 すると、暖かさがよみがえってきて、次第に熱くなってきた。
――彼女は求めている――
 そう感じると、もう後に引き下がる気分ではなくなってしまった。震える彼女を抱きしめながら、足はホテルの入り口へ……。拒否することもなくついてくる美佐子、部屋を空けるとジメッとした空気を一瞬感じたが、彼女の淫靡な匂いを感じることで、感覚は麻痺してしまったようだ。
 どんな匂いだったかハッキリとは覚えていないが、甘い香りの中で時々感じることができる柑橘系の香りが印象的だった。
 柑橘系の香りは、そのまま美佐子の匂いとして記憶されてしまった。普段からつけている香水に感じなかったのはなぜだろう。だが、それ以降、柑橘系の香りを感じれるのだから、それまでもつけていたはずだ。
 美佐子を抱いた日、時間の感覚は麻痺していた。最初に蒸し暑さを感じ、部屋に入ってひんやりとした感じを受けた。その雰囲気の中での口付けは、きっと長かったに違いない。最初は冷たかった唇も、次第に柔らかく熱く感じるようになってくる。普段から待ち望んでいた瞬間だった。
 美佐子の暖かさを感じている時が一番幸せだったのかも知れない。次第に暖かさも感じなくなり、快感の波が押し寄せてきたかと思うと、後に残ったのは憔悴感だけ、予期していたことではあったが、気だるさが全身に襲ってきた時、何となく母親の後姿を思い浮かべていた。
 波はあっという間に過ぎ去っていった。シーツのかさかさが敏感になった身体に煩わしく感じられる。見つめている天井は、遠くなったり近くなったり、今にも落ちてきそうな感覚に襲われていた。
 遠くに見える空を見つめることの好きだった子供の頃を思い出す。大地に寝そべって空を見ることが田舎に住んでいた頃にはできたのだ。それがいつしか都会に移り住み、工場の煙突からの煙で、空の色を忘れてしまっていた。覚えているのは夕焼けが真っ赤な時くらいで、公園から帰り際の空きっ腹に匂ってくるシンナーの匂いを思い出すと、目を瞑れば夕焼けの光景が瞼に浮かんでくる。
 お母さんがよく迎えにくる友達がいた。それを横目に見ながら、羨ましいのと、情けなく見えるのが半々だったことが今でも忌々しい。友達が情けなく思えたのと同時に、自分も情けなかったのだ。
 自分がマザコンだと感じ始めた頃だったように思う。そうでなければ、情けないなんて思わないだろう。情けないと思うのは、それだけ人に気付かれたくない一面を持っていて、ついつい同じように見える友達を情けなく思ってしまうからではないだろうか。
――なんで、この女がここにいるんだ?
 考えてみれば、本当に好きな女性なのか分からない。抱きたいと思ったのは間違いのないことだが、本当に好きで彼女のことを抱きたいと思ったのかが疑問なのだ。男としての本性から抱きたくなったであれば、それだけで納得がいくのだが、なまじ好きだという感覚があるだけに、どこまで好きなのかを考えさせられる。
 きっと抱いたすぐ後だからだろう。憔悴感とともに感じる気だるさが我に返らせ、相手を感じるだけの心の余裕を作ったのかも知れない。それだけに我に返ってしまって後戻りできない状況を思い知れば、後は余計なことばかりが頭の中を巡って、結局は袋小路に入り込んでしまうだろう。
「女を抱いた後って、変な後悔が襲って来るんだよ。罪悪感に近いものかも知れないが、罪悪感を自分一人で背負っているような気分にさせられるんだ。それだけに、よほど割り切るか、好きな相手じゃないと、その間の憔悴感をもてあましてしまう結果になりかねないぞ」
 と言っていた友達の話を思い出した。まさに今がその時、欲望の後に残るものがどんなものか話だけでは分からなかったが、今天井を見つめていて。
――こんなものか――
 と嘯きたくなっている。
 テレビで女性を抱いた後の男が、いたずらにタバコを燻らしているが、それも気だるい憔悴感から襲ってくる感情に、身を委ねているからではないだろうか。幸いタバコを吸う習慣のない竜田にその気持ちは、おぼろげながら分かる気がしていた。
 隣でスヤスヤと寝ている美佐子は無防備だった。すべてを委ねた男にはこれほど安心感をさらけ出すものなのかと思えるほどで、まるでネコを思わせた。
 タコの吸盤でもついているかのように空気の入る隙間もないほどにへばりついてくる肌は、きめ細かさを感じることができる。さっきまで汗でびっしょりとなった肌が次第に乾いていくにしたがってサラサラ感が心地よい。
 暑さから暖かさに変わる瞬間であった。
「むにゃむにゃ」
 何かの夢を見ているのであろう。可愛らしい寝言が聞こえる。もちろん何を言っているのか分からないが、いわゆる夢見心地とはまさにこのような表情のことを言うのだろう。今まで自分の隣で誰かが寝ているなどなかったことなので、それだけでも新鮮である。ビッタリ寄りそった肌を見つめていると、またしても柑橘系の香りを感じる。
 すると、一瞬苦虫を噛み潰したような表情へと変わり、眉間に皺が寄った。何か苦しい夢を見たのかと思ったが、それも一瞬で、あとは普通に寝息を立て始めたのだ。
 目が覚めてから聞いてみた。
「何か夢を見ていたようだが、どんな夢だったんだい?」
 すると、少し難しそうな顔になり、言おうか言うまいか迷っていたようだが、意を決したのか話し始めた。
「ハッキリとは覚えていないんだけど、恐い夢だったわ。苦しい夢っていう感じだったように思うの。目の前にあるものを一生懸命に何かを掴もうとするんだけど、絶対に掴めないの。まるで自分の手が幻で、透けて見えるような錯覚に陥ったわ」
 そんな夢なら竜田も見たことがある。掴もうとして目の前にあるものが掴めない時の苦しさは、自分の夢を思い出せば分かることだ。
 それが何だったか、竜田には分かっていた。分かっているだけに、そんなことを美佐子の前で言えるわけもなく、まさか美佐子も自分と同じような気持ちではないだろうと、感じることを恐れる竜田だった。
 竜田がいつも追い求めているもの、そして掴もうとするが、掴めないもの、それは母親という偶像に近いものだ。ずっとすぐそばにいるようで、とても遠い存在。竜田にとってそれが母親だった。
 美佐子はどうだろう?
 美佐子に出会ってからいつも感じていることは、
――自分と同じような雰囲気がある。だから惹きあうのかも――
 という思いだ。
 二人きりの部屋に入るまでは幾分震えていた美佐子の身体を強引に抱きしめここまで来たが、部屋に入った瞬間、その震えは止まっていた。きっと覚悟を決めたのだろう。
作品名:短編集80(過去作品) 作家名:森本晃次