猫には感傷なんてややこしい感情はない
人間にすれば大したことじゃないんだろうが、それまでは覆いがないただの木箱が置かれているだけだったゴミ捨て場に鋼鉄製のごみ箱が置かれるようになったんだ。
俺たち猫にその蓋は開けられない、中には食い物が詰まっていると言うのに手が出せなくなっちまったんだ、俺たちにとっては死活問題さ。
その結果、ゴミ箱に頼らず狩りで食い物を得なければならなくなった、そうなると今の縄張りは狭すぎる、獲物となる小動物を充分に取るためには隣り合う群れの縄張りを奪わなくちゃならない。
ほどなく一方の群れと全面戦争になった。
単独で狩りをしていたこっちの牝が殺されたんだ。
どのみち縄張りを奪わなくちゃならない、それは向こうも同じだ、群れ同士でぶつかるしかないじゃないか。
もちろん俺は先頭に立って切り込んで行った。
相手のボスも、今度は死ぬ気で立ち向かって来たが、気合だけで何とかなるもんじゃない、こっちだって殺らなきゃ殺られるんだ。
激しい戦いになったが、相手を前脚で抑え込んだ俺は喉笛めがけて牙を立てた。
もがき苦しむ相手が動かなくなるまでね。
それを合図にしたように群れ全体の戦いになったが、ボスを失った群れと、先頭に立って蹴散らして行く俺が率いる群れでは勢いが違って当然だ。
牝同士の戦いではなかなか相手を殺すところまでは行かないが、俺は違う。
戦闘全体を見渡して劣勢になっている牝には加勢してやった、前脚で抑え込もうとしている時に喉を狙われればひとたまりもない、俺は何匹もの相手に致命傷を負わせ、背走し始めた群れを追って、逃げ遅れ始めた子猫を次々に噛み殺して行った。
生かしておいてはいつこっちが脅かされるようになるかわからない、子猫と言っても一年もたてば力をつけて来るかも知れない、縄張りを確実にモノにするためには、二度と群れが出来なくなるまでに叩き潰さなくてはならないんだ。
何匹かは逃げおおせたようだが、大きな傷を負っていては野生で生きてなど行けない、結果的には全滅になるだろう。
それから数日後の未明、俺は草むらがざわついている音に気が付いた。
草を掻き分ける音までは消せないが、足音は忍ばせている。
そんなことが出来るのは猫だけだ、草を掻き分ける音はそこかしこから聞こえている、群れで襲って来るつもりなのだ。
俺は牝たちに警告を発して身構えた。
この群れは以前俺がボスとして君臨していたことがある群れ、今のボスは俺を追った牡猫を追い落としてボスの座に就いた奴だ。
まだ若く、身体の大きさも力も俺には及ばない、その体格の差、力の差を見せつけることでこれまで威嚇して追い払ってはいたが、今回は相手も必死、ゴミ捨て場ならば俺たちの群れが立ち去った後でも食い物を得られていたが、今回は縄張りを掛けた戦いだ、奴も命がけで立ち向かって来るだろう。
体格と力では俺が上、それは変わらないが、奴は若く機敏さでは俺より上で俺が敗れた相手に勝ったと言う実績もある、決して侮れない相手だ。
俺が気づいて警告を発したことは当然奴も気づいているだろう。
一瞬、草むらからの音が止んだかと思うと、案の定奴が飛び出して来た。
俺は右からのパンチを繰り出すべく身構えたが、奴は真っ直ぐ突っ込んで来たわけではなかった、俺のやや左側をめがけて飛び込んで来たので俺の右パンチは空を切り、逆に奴が繰り出して来た左を俺は顔面に受けちまった。
左目を狙って繰り出して来た爪、だが俺はとっさに顔を振って目への直撃だけは避けた。
それでも瞼の上に深い傷を負ったようだ、流れ出して来た血が目に入り、左目が見えない。
俺たち猫の目は正面を向いて付いている、肉食獣の証だ、それゆえに左目が見えずとも左側の視野が損なわれたわけではない、しかし人間と同じで、片眼では距離感がつかみにくくなる、初っ端から俺はハンデを背負った。
だからと言って怯むわけには行かない、群れを守る戦いと言うだけではない、敗れれば死を意味するんだ。
俺は右を空振りした勢いそのままに奴に体当たりした、左を出してからの着地だ、バランスは完璧ではない、奴はもんどりうって倒れた、俺はすかさず前脚で押さえにかかるがすんでのところでかわされ、俺たちは正面から向かい合った。
奴は俺の左へ左へと動く、視界が狭くなっている方から襲い掛かるつもりなのだ、当然俺も左へ左へと向きを変えて奴を正面に置こうとする、と、奴が大きく左へ跳び、俺の視界から消えた、その瞬間、俺は腰の左側に体当たりを受けてもんどりうって倒れた。
奴が俺を組み敷こうとしてとびかかって来る、が、俺は仰向けになって後ろ足を蹴り出し奴の顎を蹴り上げると奴は仰向けに倒れる、すかさず前脚で押さえにかかるが、ギリギリのところで逃げられた。
再びにらみ合い……どうやら力は互角、だが長引けば傷を負って左の視界が狭められた俺が不利になる。
背後でも牝同士の戦いが始まっていて、数で劣るこちらが圧倒されている、次の一撃に勝負をかけなければならない。
再び奴は俺の左側へと跳んだ、死角からとびかかるつもりなのだ。
俺はイチかバチか、右に身体を回転させて左のパンチ繰り出した、奴の姿は見えていない、空振りすれば致命的だ、体勢を崩したところを押さえ込まれるだろう、タイミングは計ったが勘に頼った一撃だ。
「ぎゃっ!」
はっきりとした手ごたえがあり、奴が地面に叩きつけられた、そして俺の爪の先には奴の目玉が刺さっている、俺の一撃は奴の右目をえぐり出したのだ。
勝負をかけるなら今しかない。
俺はとびかかって奴の左目に爪を立てる、今度は目玉が地面に転がった。
これで奴は完全に盲目、もう戦力にはならない。 傷も深いから直に命も落とすだろう。
俺は奴を放り出して牝たちの加勢に向かった。
子供を守って応戦している牝を組み敷いて、今まさに噛みつこうとしている敵の牝に跳びかかり横転させた。
……その牝には見覚えがあった、俺が以前こっちの群れを率いるようになった頃はまだほんの子猫だった、三毛だが黒と茶の部分が少ない白い牝……成猫となるとひときわ美しく、俺の交尾を何度も受け入れてくれた愛着のある牝だった。
俺は一瞬躊躇したが、跳びかかって来たのでパンチを繰り出して地面に叩きつけ、喉笛に噛みついて振り回して立ち木に叩きつけるとぐったりと動かなくなった。
すると別の牝が二匹同時に跳びかかって来た、三毛によく似た二匹……俺の子なのかも知れない、そう思いながらも次々に牙に掛けた。
他にも見覚えがある牝はたくさんいた、若い牝は俺の子供である可能性が高い。
しかし、今、俺はこっちの群れのボスなのだ、群れを脅かすならば容赦するわけには行かない。
(逃げろ、退散してくれ、どこか他の所で生きてくれ)
そう願いながらも手加減や容赦はせず、次々と爪に掛け、牙に掛けた……。
襲ってきた群れがようやく劣勢を悟って逃げて行ったのは、半数近くが倒れてからだった、まだ死んではいない敵も脚が折れたり深い傷を負っていて戦闘不能、俺の群れの牝たちはそんな敵に容赦なく襲い掛かり、ようやく戦いが終わった時には、死骸が散らばっていた。
作品名:猫には感傷なんてややこしい感情はない 作家名:ST