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妖怪の創造

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 そんな「墓場」ともいうべき海から、死体が流れ着いたとしても、それは甚だ不思議ではないものと言えるだろう。いちいちそのことに一喜一憂する暇もないくらいに、漁村で生活するというのは、想像以上の厳しさがあるだろう。
 ただ、そんな海を目の前にしても、足立村に押し寄せる「土左衛門」の数はハンパではなかった。
 他の村と暗黙の了解で助け合いはすると言っても、情報共有まではしていないのが実情で、確かに死体が流れ着くのは日常茶飯事だと思っていながら、他の村がどれほどのものなのかは周知ではないに違いない。
 その証拠に、村の少年たちは、ほぼ毎日のように流れ着いてくる死体の数を、
「これが当たり前なんだ」
 と思い込んでいたことだろう。
 隣村の少年たちは、そんな数を知らないから、一月に数体流れてくればいいという程度であっても、
「多いな」
 と認識していたかも知れない。
 それでも実際に海に出て仕事をするようになると、それまで何ら新たな情報があったわけでもないのに、
「この村は多すぎる」
 という認識を足立村の若い漁師は感じていた。
 理由についてはいくつかあったようだが、一つの理由として、
「足立村が入り江になっていること」
 が一番の理由だとされている。
 特に足立村の左右から角のように突き出したところの左側は、断崖絶壁になっている。
「あそこから落ちたら、まず助からない」
 と言われているところで、子供の頃から、
「あそこには近づくな」
 と言われていた。
 角の手前には小さな神社ともいえるくらいの大きな祠があり、そこが断崖から亡くなったと思われる人たちの菩提寺の役目を果たしていた。
 何しろかなり高い断崖絶壁で、下は岩場となっているので、落ちてしまうと、顔や身体が誰とも見分けのつかぬほどになってしまうので、身元不明者として、無縁仏ということで、この祠に祭られているというわけである。
 そのうちにこの祠が、
「足立村の海の守り神」
 として伝えられるようになり、毎日のように、穀物や果物が供えられるようになったという。
 これはずっと誰にも知られていなかったが、村から一番祠に近いところに住んでいる家が、代々行ってきたことのようだ。
 そのご利益なのか、この神社にお供え物をしていた家は、江戸時代に大きく発展し、網元のような大きな屋敷を構える家に成長していた。
 明治に入り、少しは没落したが、それでも家の格式は他の一般漁民とは違い、洗練されたものであった。
 農村でいえば、さしずめ、
「お庄屋様」
 と言ったところであろうか。
 時代が変わっても、穀物をお供えするという風習は変わっておらず、ずっと続けられてきた。ただ、すでに祠のことを真剣に守り神として考えている人が減ってきたのか、お供えする家がどこなのか、知らない村人が増えてきたのは事実だった。
 ただ、この祠に対しての言い伝えは諸説ある。海の守り神として、あみもとの先祖が建立したものだという話であったり、かつての城主が建立したものだという話もあったりするが、どの話にも信憑性があるようで、決定打が薄い。だが、明治以降に言われるようになったウワサが今では一番信頼できるとして信じられるようになったのだ。
 そのウワサというのは、その先にある断崖絶壁にまつわるもので、断崖絶壁から落ちる人は昔から絶えなかったという。その中には生活に困窮し自殺を試みた人も多いというが、それ以外には、海で妖怪に出会い、それが精神疾患を呼んだことで、本人の意志とは裏腹に、断崖から身を投げてしまうというのだ。
 本当の自殺とどこが違うのかよく分からないため、最初の頃は、そんな説を信じる人はいなかったという。だが、妖怪伝説がこの村に定着してからは、
「ひょっとして生活苦での自殺よりも、妖怪による魔力の方が強いのではないか?」
 と言われ始めて、祟りを恐れる人が増えたという。
 特に海が生活に密接に結びついている地域なので、海を無視して生活するわけにもいかず、いろいろな対策が考えられたが、そのどれも功を奏することはなかった。そのため、残った方法としての、
「神頼み」
 のために建立されたという説が浮上してきたというわけだ。
 しかもこの建立には村人たちそれぞれが協力したものだという。もちろん網元が資金の多くを供出したというのは当たり前のことだが、村人皆からの寄付によって建立されたこの祠、確かに記念碑のようなものがそのそばに建っているが、その裏には何かで彫られた文字が残っていた。長年、潮風に晒されたせいもあってか、解読は困難だったが、どうやら建立の年月と、寄贈した人たちの名前が彫られているようだった。大正時代のことなので、それを解読できるほどの技量もなければ、そこまでして解読する必要もなかった。ただ、守り神としての祠がそこに存在していることが重要なのだった。
 そんな祠と記念碑の横には、道というには粗末で、草も生え放題になりかかっている状態がある程度の期間放置されている。さすがに祠が近くにあるので、生え放題を放置しておくには忍びなく、少し荒れてき始めると、村人が一日総出で、整備するのだった。
 だが、実際には祠の神通力が通じているのか通じていないのか、検証などできるはずもなく、一月に数人はここで死んでしまうという状態が続いていた。
 祠から向こうは道がない状態で、しかも、しめ縄に視界ような綱で、絶壁の前にある二つの大きな木の間に張り、立ち入り禁止の状態にはしていた。
 ただ、できるのはそこまでで、それを乗り越えて立ち入ることは大人であれば、容易なことだった。子供でも無理なことではなく、大正時代に入ってからは、大人だけではなく、子供がここから死体となって上がるということも少なくはなかった。
 だから、生活苦のための自殺だけではないと騒がれるようになったのであって、子供がどうしてそんなところに行って、死ぬことになるのかということは誰にも分からなかった。
「やはり、妖怪がいて、誘うんだよ」
 誰かがいうと、
「妖怪なんか迷信に過ぎないんだ」
 と他の人がいう。
 この人は元々怖がりなので、妖怪の存在を何とか打ち消したいといつも思っていた。だが実際にはそんな人間ほど一番妖怪の存在を信じているもので、だからこそ、いの一番にその存在を打ち消したいと思うのだ。
 村人は死人が定期的に出ることを憂慮していた。県の方からも以前調査団として派遣された人たちがいたが、大学の研究チームだという。彼らに妖怪の話をすると、
「妖怪ですか? そんなもの本当にいると信じているんです? そんな非科学的な」
 と、村人の真剣な話を一蹴されてしまった。
 一蹴したのは、研究員の若い連中で、実際に調査団のリーダーとしての教授と呼ばれた人は、口では、
「妖怪というものは、何かの超常現象が重なり合って、妖怪の存在という形で説明する方が一番楽だから考えられたものじゃないかって思うんですよ」
 と言っていたが、どうやら、本音は信じているようだった。
 教授は調査に来る前に、この村や周辺に言い伝えられ、古文書として残っている文献をどうやら調査済みのようだった。
「信じていないと言っている人がそんなことはしないだろう」
作品名:妖怪の創造 作家名:森本晃次