妖怪の創造
教授は自分が五十五歳になったという自覚は持っている。特に最近では、老化について気になることもあった。膝や腰に来てみたり、ちょっとしたことでだるさを感じてみたり、何より気になるのは、視力の低下だった。
ただ、それも気にしなければ、そこまで深刻に感じることはないので、年相応を意識するようになったと言っても、四六時中というわけではない。それが却って四十代後半を意識している自分が、
「もう一人の自分なのではないか?」
という意識にさせる部分であった。
そんなことをいろいろと思い浮かべながら呑んでいると、自分でもこんなに呑めるのかと思うほど、酒の量が入っているようだった。
台の上を見ると、すでにお銚子がいくつも転がっていて、自分でも結構呑んでいるのを意識した。普段ならお銚子一本も呑めばある程度の限界なのに、その日は二人で五、六本は開けていた。さすがに彼は漁師だと言っても、一人で五本も呑めるとは思えない。実際に意識はしっかりしているようなので、呑んだ量とすれば、二人で同じくらいのものだろう。
さすがに泥酔している状態だったが、ふと教授は気になっていたことを口にした。
「ところで君はおいくつなのかな?」
と言われて彼は別に驚くこともなく、
「四十二歳です」
と答えた。
それを聞いてビックリしたのは教授の方だった。
「えっ? そんな年だったのかい? 私には三十歳前に見えたのだが」
というと、
「そんなこと言われたのは初めてです。今まではずっと年相応に見られてきて、若く見られたことも年に見られたこともありませんでした」
それを聞いた教授は、
「そうなのかい? 普通だったら、少しは年相応に見えない人もいるものだけどね」
と言って、ふらついた。
「大丈夫ですか? かなり泥酔されておられるようですね」
話を変えるまでは、意識はしっかりしていたはずだった。
自分の意識がハッキリとしない感覚になってきたので、話を逸らしたのか、それとも話を逸らしたから、急に酔いが回ってきたのか、よく分からなかった。
「四十歳ということは、もう奥方もおられるのかな?」
と聞くと、彼はそれまでの酔いからの上機嫌な表情は消え去り、急に冷めた表情になった。
いくら強いとはいえ、話をしていて楽しい話であれば、酒の酔い以外にも酔える要素が多分にあるというものだ。
それなのに、急に冷静になったのはなぜだろう?
しかも昼間の素面の時間帯を含めても、ここまで冷静な、いや、冷淡とも思える表情になったのはなぜなのか、教授はあっけに取られていた。
――私は何か気に障ることを言ったのだろうか?
と反省したが、ここまで表情が変わるということは、自分の言葉が発端ではあるが、すべての責任ではないように思えた。
彼は目の前の盃を飲み干すと、ゆっくりと語り始めた。
「私もさすがにこの歳まで独身であると最初から考えていたわけではありません。別に相手がいなかったというわけではなく、実際に結婚の約束をした人がいたんです。その人は近くの漁師の娘で、海女さんをしていました。最初は父から、身分が違うなどと言われて反対されていたんですが、時代が自由を求めるようになってきたことで、網元としても、あまり格式ばかり言ってはいられないという意見もあり、彼女との結婚を認められたんですが、結婚の約束をしてしばらくして、海の事故で亡くなったんです。漁に出てから、身体に藻が巻き付いて、そのまま窒息してしまったという話でした。でも彼女は泳ぎも達者で、しかも、達者なだけに無理なことは決してしない人だったので、事故で死んだということは海女さん仲間の人も不思議に感じていました。中には祟りを口にする人もいて、しばらくは海女さんの活動ができなかったのですが、彼女の四十九日を過ぎて少ししてから、海女さんの活動は再開されました。そんなことがあり、私はそれ以降、好きになる女性も現れることはなかったので、ずっと独身でおります」
「きっと忘れられないでしょうね」
と教授がいうと、それまで我慢していたのか、それとも酔いが泣き上戸にしてしまったのか、彼の目から涙がしばらく止まらないような状態になってしまった。
「ええ、でもこれでもだいぶ立ち直ったんです。私が実は今日教授をここで二人でお話したいと思ったのは、さっきも申しました通り、まるで妖怪ではないかと思える干からびた死骸を私が見つけたからで、ひょっとして私の嫁になるはずだった女性は、その妖怪にやられたのではないかと思うようになったんです」
「なるほど」
「私が見つけたというのも、何かの縁なのではないかと思ったものですからね。本当は私は祟りだとか、迷信の類は、ほとんど信用していないというのは、この村の人も周知のことなんです。だから、今日ここで教授の研究に従事している私のことを、どうした気の回しようかと思ったことだと感じます」
彼はそう言って、神妙にしながら、今回は酒をすするように飲み干した。
おいしそうに呑んでいるが、この男の呑み方には、どこか特徴的なところがあるように思えたが、自分も訳が分からないほどに泥酔しているので、そこまでの分別はできないでいた。
「あなたは、その妖怪に復讐がしたいのですか?」
と教授が聞くと、
「それができるのであれば、したいです。でも、できるはずはないと思っているから、せめて自分のすべてだと思っていた人を奪ったモノの正体を知りたいんです。今後も僕のように不幸な人が現れないようにですね……」
と言って少し神妙になった。
だが、すぐに今まで俯いていた顔を挙げて、急に笑いながら、
「なんてね、そんなきれいごとで済まされるわけはないじゃないですか。確かに復讐なんて無理かも知れない。自分一人でどうなるものでもないし、返り討ちに遭うのがオチなんでしょうね。でも、やっぱり正体は知りたい。いずれ僕の敵を未来の人が討ってくれると信じていますからね。でも、復讐する相手って、本当にその相手なんでしょうかね? 人違いならぬ、妖怪違いなんてこともあるんじゃないでしょうか?」
「それはあるかも知れませんね、相手が一匹だけしかいないのであれば、相手はそいつになるんでしょうが、相手の正体も分からないので、動物なのか、それとも本当に妖怪の類なのか、それとも幽霊の類なのかで変わってきますよね」
「ええ、動物なら、寿命はそんなに長くないだろうから、相手ということは将来においては考えにくい。そして幽霊の類であれば、そもそも我々の意識している『存在』自体が怪しいので、相手を殺すという概念とは違うのかも知れないですよね。さらに妖怪ともなると、もっと訳が分からない」
「その通りです。ただ私の研究はあくまでもその土地の伝説であって、妖怪の研究ではないので、そのあたりをお間違えのないようにしてください。だから、もしこれが復讐というのであれば、私たちとは主旨がまったく異なっているので、協力はできません。それでもよろしいかな?」
と教授がいうと、何やら歯ぎしりをしていたようだが、渋々ではあるが頷いた。
言葉ではああ言っていても、やはり復讐したいという気持ちに変わりはないのだろう。彼は一縷の望みを掛けて、今日、ここに赴いたのかも知れない。