妖怪の創造
「ええ、そこには何やら不思議な図形というか文字というか、おまじないの一種ではないかと思えるようなものが入っていたんです。それで私の父がまだ若い頃、それを調べてもらおうと専門家、そうですね、先生のような大学の教授だったのかも知れませんが調べてもらうと、どうやらそれは、『五芒星』と呼ばれるものの一種だったと言います。そしてその場所にあったという経緯と、今私が話したようなことを話すと、教授がいうには、それは一種の魔除けではないかというんですよ。海に引きずりこむ妖怪に引きずりこまれないようにするための、呪文のようなものが、この図形として描かれているというものだったんですね」
「じゃあ、今はどうされているんですか?」
「本物はそのままご神体としてこの祠に奉納されています。そして同じ形の絵を描いて、それを皆がお守り、いや、魔除けとして持つようになったんです」
「じゃあ、箱に入れて収めてあるんですね_」
「ええ、そのはずです。私も実際に箱は見たことがありますが、中を開けてはいけないということで、決して開けたことはありません」
「封印されているというわけですか?」
「ええ、父親は教授に相談した後、今度は祈祷師にも相談したようです。もちろん教授の意見を聞いたからなんですが。そこで魔除けを皆で持つことを勧められたんですが、元本は元にあった場所に、元々あったようにしてちゃんと奉納しておかなければいけないと言われたそうです。そしてその時、絶対に誰も開かないように、封印することを忘れないようにと言われて、封印のお札を貰い、それを張り付けて、誰も決して開けてはならないということで、祠の奥に大切に奉納されています」
「うん、よくあるお話だと思います。特にこの村には、いや、この地域と言った方がいいのかも知れませんが、妖怪伝説があるから、祈祷師の話はもっともだと思いますよ」
「でも、何か不思議な気がします」
と息子は訝しがった。
「どうしてですか?」
その様子に教授も興味を持って聞いてみた。
どうやら、この息子は自分でいろいろと話をしながら、その都度納得のいかないことを抱えているように見えたのは、その言動にどこか自信がないように見えたからだった。核心をついていると思われる話の際でも、どこか冷静で、自分から話をしたいと言ったわりに、そこまでの興奮はなかったからだ。
教授は心理学に関しても造詣が深いので、人と話をしていると、その人の話し方で性格やその人の抱えている悩み、あるいは、矛盾、ジレンマを読み取ることができた。もちろん、詳細まで分かるわけではないが、うまくその話を引き出すだけの自信もあった。彼が研究員から絶大に支持されている一番の理由なのかも知れない。
「どうして箱がこんなにも厳重だったんでしょうか?」
息子の疑問はもっともだった。いや、誰もが抱く疑問なのだろうが、中に入っていた不思議な文字に対するインパクトが強すぎるため、もはや箱に入っている理由など、どうでもいいと思ってしまうのだろう。だが、この男はそれだけでは満足できないようで、それだけ落ち着いているのかも知れない。
「このような箱は、日本にもいくつか民芸品としてあるようですが、一番一般的なのは、ソ連、いや旧ロシアで伝わっている、『マトリョーシカ』というのがあるんですが、それに酷似しているようですね」
「他にもあるんですね」
「ええ、ほとんどは民芸品のようなものとして扱われているようです。ここでの魔除けの札を奉納するために使われているというような話は私が知っている限り、聞いたことがありません」
「そうなんでしょうね。それだけ珍しいものということなんでしょうね」
「ええ、実際にロシアのマトリョーシカも、ここ数十年で表舞台に出てきたものですから、ひょっとすると、この箱は、世界最古のマトリョーシカと言える存在かも知れませんよ」
「でもですね。魔除けとして使うんだったら、どうしてそんなに厳重に保管する必要があったんですか? 箱を何重にもすればするほど、その効力は小さくなるんじゃないでしょうか?」
「確かにそうかも知れない。でも、さっきも話したようなメデューサの首の話のように、死んでも効力が残るという話もあります。それを思うと、この魔除けの効力はかなりのものと言えるかも知れませんね」
「でも、実際に効力があるのは、文字というか、あの図形なんですよね。同じように模写して作ったものがお守りとして皆が持っているわけだから、効力は奉納されている紙というわけではないんですよね」
「一概にはそうとは言えないですよ。もちろん、絵を描いただけでは、本当に効力があるとは限らない。当然絵に描かれたものを祈祷師が祈祷しているはずですからね」
「それはそうだと思うんですが、複写に効力があるというのは、何か箱にも関係があるんじゃないかと思うのは僕の考えすぎなんでしょうか?」
息子は少し自分の考えを不安に感じているようだった。
確かに息子の言っていることにも一理あると教授は考えていた。しかし、今それをネガティブに考えてしまい。それを彼に言ったところでどうなるものでもない。この村で研究させてもらっている恩はあるが、余計なことを言って混乱させることはなかった。
実は教授なりにそれなりの不安もないではなかった。もう少しそのことについて彼に話を聞いてみたいという思いもあったが、ここに及んで彼が不安に感じ始めたということは、彼が今日訪ねてきた本当の理由がここにあると思うと、深入りするわけにはいかないと感じた教授だった。
「あまり余計なことを考える必要はないと思いますよ」
と教授がいうと、少し訝しげに頭を傾げたが、
――教授がいうんだから――
ということで納得したのか、彼はそれ以上何も言えなくなった。
「この話はここで一旦向こうに置いて、少し呑みましょう」
と言って、彼は教授に酌をした。
「ありがとうございます」
「このお酒は、昔からこのあたりの城主に献上するためのお酒だったので、おいしいと思いますよ」
というと、
「ほう、きっといい水源があるんでしょうな」
と教授が答えた。
「ええ、この地域はどこも海に面しているので、漁村のイメージですが、この裏から一山超えると、そこには農村があって、その向こうにある高原では、放牧も行われているんです。つまりここを治めておられた城主にとっては、海の幸、山の幸とが豊富だったんですよ。当然高原ではいい水が摂れる。それで酒造りも活発だったというわけです」
「そういえば、このあたりの特産品はお酒もあると聞いたことがありましたね。私の大学に詳しい同僚がいるので、お酒の話は事前に聞いていました」
「そうだったんですね。でもそのお酒というのも、なかなか手に入るものではない。我々のような貧乏の漁村では、うちのような網元くらいでしか、普通の時には呑めません。だからうちも何かがないと、そんなにこの地酒を呑むことはないんですよ」
「じゃあ、皆さんはどんなお酒を?」
「農家からのお米を普通に醸造している酒蔵があるので、そこのいわゆる貧相なお酒を他の漁民と一緒に呑んでいる次第ですね」