短編集79(過去作品)
子供の頃にも、カビの匂いを感じたように思う。壁が剥げかけていていかにも古い建て方に異様な雰囲気は感じていたはずだ。その時の記憶がよみがえり、女性の匂いとして連想したのだろう。
保はそんな自分が嫌だった。満員電車の中などで匂ってくる女性の汗の匂いに興奮を覚え、ゾクゾクとしたものを感じる。時には震えを感じることもあるくらいで、自分が変態ではないかとさえ思っていた。
しかし、それも思春期特有の精神的に不安定な時期だということを分かっていなかったからだ。それに気付いたのは、それから数年経ってからで、自分が「大人」だという意識を持ち始めたのが分かってからのことである。
大人に憧れながら、大人になるまでの試練のようなものがあるのかも知れない。その頃に感じた女性の匂いを大人になってからでも思い出す。女性を抱く時に感じる匂いで興奮を覚えるのも、カビの匂いがあまりにも印象的だったからに違いない。
保が嫉妬という言葉を身に沁みて感じたのも高校生になってからだ。
その頃になると女性に対しての思いが強くなり、好きだと思える人も現れる。しかし、本当にその人のことが好きなのか分からない。その人に憧れながら、近くを可愛い人が通れば目で追ってしまう自分もいて、最初はそれが嫌でたまらなかった。それが男の性だと思えるようになるまでにさらに時間が掛かったように思う。それでも好きになった人から、
「私のどこが好きなの?」
と聞かれて言葉に詰まっていた。好きになった人には、告白しなければ気がすまない保は、いつも告白していたように思える。
それも自分が軽いのではないかと思えてしまって自己嫌悪に陥る原因になってしまっていた。好きなのと聞かれて、考えもなしに告白してしまったのではないかと思える自分が悔しい。もちろん告白するまではいろいろ考えてのことだったはずだ。それが気持ちを聞かれた途端に我を忘れてしまうなど、本当に好きだったのかと疑いたくなっても当然ではないだろうか。
嫉妬するようになったから女性が気になるのかも知れない。中学の頃の女性に興味のなかった頃は、友達が女性を連れて歩いていても気にならなかった。
――何がそんなに楽しいのだろう――
としか思えず、しかとしていたように思う。ところが、どういう心境の変化なのか、楽しそうな笑顔を見ていて羨ましく感じるようになったのである。きっかけなど些細なことだったのかも知れない。
「他の人に今の自分の気持ちを抱かせたい」
案外そんな気持ちだったのだろう。他人を意識せずに高校生まで来たと思っていた保だったが、初めて他人を羨ましく思えてくると、もう感情を抑えることができなくなっていた。
セーラー服が眩しく見える。それまでも、何となく神聖な冒しがたい雰囲気があったのだが、女性というものを意識し始めると、気がつけばじっと見つめていて相手に気持ち悪がられるような感じになることもしばしばだった。
顔が真っ赤になっている。女性を意識するということが身体に与える影響の大きいことにビックリさせられ、恥ずかしさから誰にも言えないような純情な青年だったのだ。
保をそんな気持ちにさせた女性は、いつも同じ電車で通学していて、私服で乗っていることから女子大生かも知れない。まだ幼さが残っているように見えるのはポニーテールという髪型に、体型がそれほどクッキリしているわけではない、幼児体型だからだろう。いわゆるポッチャリ系である。
いつも本を読んでいて、俯き加減の横顔に保は女性を見たのだ。表情がほとんど変わることがない。いつも同じ表情だからこそ、保は気になったのだろう。
いったいどんな本を一生懸命に読んでいるのだろうと思い、覗き込んだことがある。まわりのことをなど気にも掛けずに一心不乱に読んでいる本に興味があったのだ。保が確認のために近づいていって覗き込んでも、彼女は気付かなかった。それほど一生懸命に読んでいる。
――宇津木聡――
彼女に対して親近感が生まれた。ドロドロした内容の本なだけに、あまり読者はいないだろう。しかし保を筆頭に、嵌ってしまうと一気に読まないと気がすまない本でもある。それだけに読者には熱狂的なファンが多いはずだ。
宇津木聡の作風を話題にすれば、きっと話題が尽きることはないかも知れない。他の作家にはない感性が求められ、嵌って読んでいると、それだけいろいろなことを思い浮かべるからだ。
――一度声を掛けてみたい――
何度か思ったが、その都度自分の根性のないことを思い知らされる保だった。たった一言掛ければいいのにと思うのだが、その一言が思い浮かばない。特に一生懸命に本を読んでいるのを邪魔するような行為だという自負があるからだ。
最初の一言さえ違和感なければ、二言目からは会話にできる自信はある。すぐに宇津木聡の話題に持っていけばいいからで、それはさして難しいことではない。それだけに最初の一言を思い浮かべているが、浮かんでこないのだ。
何度も電車で会っていて気持ちは膨らんでくるのに、彼女に対して相変わらず、謎に見える部分が透けて見えることはない。すべてがオブラートに包まれているようで、気持ちの表現がままならないのだ。
何度目かに見かけた時に、彼女は一人ではなかった。そばには男性がいて、見るからにアベックだったのだ。それまでに一生懸命に読んでいた本は手元になく、普通の明るい女子大生がそこにはいた。会話にいちいちニコヤカに答えているその姿は、どこにでもいる女の子だった。
もし最初にそんな彼女を見ていれば気にならなかったに違いない。いや、ひょっとして見ていたかも知れないが、あまりにも本を読んでいるインパクトが強いので気にならなかっただけだろう。元々電車の中で人を気にすることのない保は、乗っていても漠然と表を見ているだけの時が多かった。それだけに最初に彼女に気付いた時は、何か胸騒ぎがあったようにも思える。
女性が気になるようになってから、あえてあまり車内を見渡さないように心がけていた。どうしても女性を探しているような目になってしまい、それが露骨であることは、まわりの視線を感じることで分かっていた。女性から冷たい視線を浴びるまでは、少々露骨なまなざしになっていても自分では分からない。女性の鋭い視線を感じた時には、きっとかなり露骨な視線を浴びせていることは自分でも分かっている。もうそれでは遅いのだ。
彼女のように一心不乱に本を読んでいると、気付いているのかいないのか分からない。だが、ふと顔を上げてあたりを見渡して、そこに保がいるのに気付くと視線が止まってしまう。その表情はきょとんとしていて、決して責めているものではない。それだけに、却って彼女に自分の視線を気付かせたいという心境に陥ってしまう。
果たして彼女はどれだけの保の視線に気付いただろう? 見つめ返してきてもほとんどが無表情だ。きょとんとした表情が保にひと時の苛立ちを感じさせる。
――もっと感情を込めた表情を見てみたい――
と思うからか、見詰め合って微笑んでみたりすると、彼女も心なしか微笑み返してくる。一番嬉しい瞬間である。彼女に微笑み返してほしくて、いつもじっと彼女を見つめているのだ。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次