短編集79(過去作品)
間単に説明しても分からないだろう。幸いにも、母はそれ以上のことを聞いてこようとしなかったので、安心だった。
母はおじさんに対してかなりの信用を傾けているようだ。父のように厳格で、そばにいるだけで息が詰まりそうな相手といつも一緒にいれば、おじさんのような人が大きく見えるのかも知れない。保自身、おじさんから溢れ出る気持ちの余裕のようなものを絶えず感じていたのだ。
余裕のある人生がこれほど素晴らしいとは思わなかった。何もしていなくても、無駄だと思えない時間、何かの役に立っていると思える時間が存在するのだ。気持ちに余裕がなければ考えられないことだったに違いない。
おじさんがどんな人であるか、保はほとんど知らない。いつもいろいろ連れて行ってくれる子供好きな人なんだということと、あまり喋らないにも関わらず、余裕を感じさせる優しさを持った人だということだけは分かっている。
母に聞いてもおじさんのことはあまり教えてくれなかった。父方の兄弟だということらしいが、一度結婚してから数年で別れたらしい。子供がいなかったのが幸いだと言っていたが、一人ではさぞかし寂しいだろう。
「あなたのことを本当の子供のように思っているのかもね」
あまりおじさんの多くを語ろうとしない母がそう言っていた。保もその言葉を聞くと安心できるのだった。
「おかあさんはおじさんのことをどう思っているの?」
一度聞いたことがある。その時の母の顔といったらなかった。怒ったようでいて泣き出しそうな表情にビックリさせられた。
――何か悪いことを聞いたかな?
と感じた。今までにそんな母の顔を見たことはない。父の威厳に怯えている時の表情とはまた違い、おじさんの話をした時の母の目は虚空を見つめていた。
夏休みも終わり、おじさんと喫茶店に出かけることがなくなって最初はさすがに寂しかったが、時間が経つにつれて寂しさはなくなっていった。それだけ自分が現実的な性格なのかも知れないと感じていたが、それより季節が夏から秋に向かうことが一番の原因だったように思う。
一抹の寂しさを、秋という季節の大きな寂しさが打ち消してくれたような感じだ。食事もおいしく、疲れを感じることのない秋は、寂しさという感情すらも心地よいものにしている。
高校生になって、遠くの友達もできたことで、小学生の夏休み、おじさんと一緒に出かけた街に行くことになった。季節もちょうど夏、一人で電車に乗ることは小学生の頃からであるが、それでもここまで一人で初めて乗ってきた時は、感動したものだ。
車窓から見える景色にほとんど変わりはなかったのだが、同じところを走っているという感じがしなかった。懐かしさを感じないのである。容赦なく降り注ぐ太陽にブラインドを下ろせばいいのだろうが、窓の外を見続けていた。意地でも懐かしさを感じたいと思ったからだ。
目的の駅に到着すると、さすがに小学生の頃に比べて少し変わっていた。あの頃にちょうど工事をしていたあたりには立派なビルが立ち並ぶちょっとした都会になっていたのである。小さな事務所が多く、雑居ビルのようになっているのだが、そのせいか、乗降客も増えたようだ。バス路線もあり、住宅街へと帰っていく人の群れがバスに乗るのを何度目撃したことだろう。友達の家から駅までは徒歩なのだが、いつも帰ろうとして駅まで歩く時の夕方の日が暮れるくらいの時間が一番バスに乗る人が多いだろう。
友達の家から帰りがけに思い出の喫茶店に立ち寄ろうと探したのだが、なぜか見つけることができなかった。あの時にバイトしていた美穂がまだ働いているとは思えないことが見つけることができなくて悔しい気分を少しでも和らげてくれた。
美穂がどんな女性だったか覚えているのだが、彼女が自分の好みのタイプかどうか分からない。「おねえさん」というイメージが強かったので、どうしても年が離れていて、恋愛の対象にはならないと頭から決め付けていたのかも知れない。もっとも当時は異性に興味のなかった頃なので、それも仕方ないことだ。
懐かしさがこみ上げてきて、歩きながらでも目の前に浮かんできそうだった喫茶店がすっかり目の前から消えていたのを見た瞬間その場に立ち尽くしたのは、ショックというよりも、自分がそこにいることの意味を見失いかけていたからだ。
セミの声だけが虚しく響いている。これだけ大きな声だと耳鳴りとして残ってしまいそうだったが、その時に耳鳴りなどはなく、ハッキリと聞こえていたのだ。額からは汗が流れ出ていて、背中は気持ち悪かった。
――夏って本当はこうなんだよな――
思わず感じていた。元々汗を掻く方ではなく、熱が身体に篭ってしまう方だったので、却ってきつかったろう。夏が苦手なのはそのせいもあるのだろうが、汗が出るのもきついとその時に感じた。
重たい身体を引きずるように歩いている。小学生の頃には舗装もされていなかった道も今は黒いアスファルトに覆われている。当時のような砂埃はないが、熱を吸収して熱くなっているところから蜃気楼のように湧き上がっているのを見ると、噴出す汗を拭う気も失せてしまう。
まだ新興住宅地のため、アスファルトもそれほど汚れていない。空気も幾分透き通っているように見えるが、それだけに暑さが身に沁みている。
だが、さすがに急に発展した街なので、国道沿いなどでも静かなところに行ったりすると、田舎のイメージを残しているところもある。
青空市場のようななったフルーツ屋さんには、いつも車がいっぱい止まっている。表にはすいかなどの夏の果物がところ狭しと並んでいて、車を降りた人たちは必ずそこを覗かずにはいられない。
また、小学生の頃にはそこが何だか分からなかったが、紫やピンクといったネオンがヒッソリと輝いていた建物は相変わらずだった。モーテルと呼ばれるものの存在は、テレビドラマなどを見ていて知ったのだが、高校になってもう一度この場所に来て、
「これがモーテルだったんだ」
と初めて気付いたものだった。モーテルがどういうところかなど詳しいことは知らないが、怪しい光を放つその場所に入ってみたいという好奇心と、ドラマの影響か、悪い大人が利用するところだというイメージで凝り固まっていたことから、実に不思議な思いを抱いていた。
気になって横目では見るが、なるべく気にしないようにしておこうという意識が働くのだ。
如何わしい場所を横目に見ながら歩いているが、なぜか気になってしまう。高校生ともなれば、気になるのも当然なのかも知れないが、それにしても何かが匂ってくるように思えるのだ。
それは決して綺麗なものではなかった。モーテルを見ながらでないと思わず鼻をつまんでしまいたくなるような匂いだ。異臭を放つ場所がモーテルだということを認識しているのか、まるでカビが生えたような匂いにも感じる。
女性の匂いを知らないだけに、カビのように感じるこの匂いを女性の匂いだと錯覚している。思春期には綺麗なもの以外はすべて汚く見えてしまうように思えるものなのかも知れない。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次