短編集79(過去作品)
従順な性格が、そのまま正直者だとは限らない。どちらもいい意味もあれば悪い意味もある。性格とはすべてが紙一重、いい意味にもなれば悪い意味にもなる。最終的には本人の捕らえ方ではないだろうか?
まわりは十人十色、いろいろな見方や考え方がある。最後に振り回されるのは結局自分なのだ。
泰子はそんな雅人の一番の理解者だと思う。だからこそお互いに惹かれたのだ。あの夜のことは決して忘れることのできない思い出なのだが、思い出と思ってしまうのが怖かった。
――もう二度と会えない――
ということを意味しているからだ。きっといつか会えると思いたいのは、身体の感触を忘れたくなかったからだ。
そういえば、泰子が会社をやめて数日後、雅人の部屋の前に香水のビンが置かれていた。気持ち悪くて捨てる気にもなれないし、それを置いていったのが泰子のような気がしてならなかったからだ。
決して捨てることのなかったビン、泰子が現れれば確かめようと思っていたにもかかわらず、熊本では完全に忘れていた。そして今泰子を目の前にして……。
言葉に詰まってしまった。聞きたいことがあるのに、言葉が出てこない苛立ちがこれほどのものだとは思いもしなかった。
相手が泰子だからだろうか?
雅人はそう感じて疑わなかった。
香水のビンを時々思い出したように開けている。最初に感じた香りからは、かなり変わってきたように思える。それはきっと時間が経っているから。
しかし、不思議なことに、量が減ってこないのだ。泰子と会えなくなって数年経つが、その間に何度蓋を開けて匂いを嗅いでみたことだろう。普通、蓋を開けなくとも数年も経てば自然に蒸発して減ってきても不思議はないはずだ。
匂いが変わるのに、量が減らない。何と不思議な香水なのだ。
香水を見ていると泰子を思い出す。泰子を思い出したくて蓋を開ける。その先に見えるものは、果たして普段の泰子か、それとも最後のあの夜の泰子だろうか。その時に感じた泰子によって匂いが違うのだろう。
泰子の身体の甘美な匂い、時折酸っぱい匂いがしてくるが、明らかに汗の匂いだ。汗が引いてくるとそこに残った女の色香、くたびれた身体を抱きしめながら見つめていた安心しきった寝顔、すべてが、幻だったように思える。
匂いが次第に薄れてくると、現実に引き戻される。そのスピードの何と早いことか、目を開けるとそこは真っ暗な自分の部屋だった。
シーンと静まり返った深夜、部屋を真っ暗にして開ける香水のビンに身体が反応する。置いていった泰子の気持ちそのままだと思えてならない。
「いつまでもあなたのそばにおいて……」
と訴えているように感じるのは、虫が良すぎるのかも知れない。
それでも毎日開けることはなかった。
――たまに開けるから想いもひとしおなのだ――
と思っている。本人に会っているような気分には簡単になれるが、本人を抱いているような気分になるには、自分の気持ちを最高潮に持っていかないと無理である。香水の香りはその効果をいかんなく発揮してくれている。
従順な自分の性格が間違いでないと思える瞬間があるとすれば、それは香水の匂いを嗅いでいる時だ。匂いがしている間、雅人は客観的に自分を見ることができる。客観的に見ると、これほど素晴らしい性格に見えることもなく、自分が損をしているなど微塵も感じられないほどである。
――きっと泰子も同じような目で私を見ているんだろうな――
そう感じると、泰子の気持ちに少しでも触れることができたようで嬉しく感じるのだ。
真っ暗な部屋の奥に浮かんでいる白いもの、泰子が目の前に立っているように見える。香水の蓋をそのままに、目を開けることもあるが、そんな時に現れる白い影、明らかに泰子をイメージしているのだが、泰子であるはずがない。どうしても会いたくてたまらない時に目を開けるのは苦痛でしかない。目を開ける時は幾分か気持ちに余裕のある時だけである。きっと気持ちに余裕がないと、目の前から一瞬にして消えてしまうはずである。
ビンを開けて匂いを嗅ぐ。泰子を思い出して反応する身体、その時に耳元で囁いている声が聞こえるようだ。
――あなたは自分を信じて生きるのよ。正直者が損をするなんて思わないで頂戴――
思わず頷いている。泰子に諭されると、どんなことでも逆らえないように思える。本当は人に逆らえない性格を嫌だと心の中で思いながらも、それが自分の中でもいいところだと思えてならないジレンマ。泰子の言葉が自分の信念を証明してくれているように思えるのだ。
――これから泰子とはいつでも会えるんだ――
という気持ちからか、その日は話だけで別れた。帰りの道すがら次第に不安が募ってくるのを感じていた。
何の不安だというのだろう。久しぶりに会った泰子は最後に会ったあの夜とかなり変わっていた。あれほど積極的だっただろうか? わざわざ雅人に会いにきたなんて、今までの泰子から想像もできない。
――本当は抱いてあげなければいけなかったかな?
と感じたが、すぐに否定する。
――抱いてやるなんて自分中心の考え方だ。泰子に対してそんな風に考えちゃいけないんじゃないか――
と思う。今までも押し付けっぽい考え方をかなりしてきたと思うが、後から考えてそのことに気付くなどなかった。
少し自分を顧みることができるようになったのだろうか? もしそうだとすれば、泰子のおかげである。いつも嗅いでいる香水で思い浮かべている泰子に出会ったら、「ああしたいこうしたい」といろいろ想像を膨らませていたからかも知れない。
だが、実際に出会うとそんな気持ちはまったく表に現れるものではなかった。きっと顔を見ると香水の香りが自然によみがえるだろうと思っていたにもかかわらず、いくら短い時間だったとはいえ、その間に香りと泰子との時間がリンクすることはなかった。一緒にいた時間、それはいつもビンを開けて香水の香りを楽しんでいる貴重な時間とほとんど変わらなかったように思えてならない。
時間にして約十分、それくらいにしか思えなかった。会話がそれほどあったわけではない。そして沈黙の間があったわけでもない。気がつけば時が規則正しく刻まれていくだけだった。
急いで帰って香水のビンを開けたくなるのはなぜだろう?
――さっき会ったばかりじゃないか――
自問自答を繰り返すが、話している途中から、なぜか香水が気になって仕方がなかった。
真っ暗な部屋へと帰り着くと、表の蒸し暑さとは打って変わって、扉を開けた瞬間に中から冷たい空気が漏れてきた。
本来なら締め切った部屋は昼間に篭った暑さでムンムンしているはずである。なぜこれほどひんやりしているのかと頭の中で感じながら、まるで冷蔵庫の扉が開いているのではないかと思えるほどだ。したがってそれよりも気になるのは香水であった。なぜなら蒸発を恐れて香水は冷蔵庫に入れてある。一人暮らしなので、冷蔵庫にあまりものが入っていないので、他のものは気にならない。急いで台所へと向かって冷蔵庫を確かめてみた。
「よかった、扉が開いているわけではないんだ」
急に身体の力が抜けてきて、それまで身体の奥で燻っていた熱さが急に表に溢れ出てくるのを感じる。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次