短編集79(過去作品)
吹き出すような汗がそれを証明していて、気持ち悪さが身体の芯から溢れてくる。だが、服を脱ぐ気力を失ってしまったのか、しばし座り込んだままその場に佇んでいた。
急いで冷蔵庫を開けて香水のビンに手を掛ける。急いで帰ってきてはいるが、走ったわけでもないのに、荒い息遣いが静かな部屋に響いているのを感じる。喉の乾きも気になるのに、気持ちはそれどころではないのだ。
――何をそんなに焦っているのだろう?
禁断症状ではないかと思えるような自分に焦りを感じる雅人だった。さっきまで一緒だった泰子を思い出しながら香水を嗅ぎたいと思っているのだ。夢にまで見た泰子との再会、しかし、客観的に見ていた自分がいたようだ。
何もかもが違いすぎるのだろうか、震える手を蓋に掛けて一気に捻った。
「あぁ」
思わず恍惚の表情で、瞑った瞼の奥に浮かんでくるいつも出会っている泰子の登場を心待ちにしている。いつもであれば、一瞬にして現れるはずなのだ。香水の効果がそれだけ短いのだ。現れてから一瞬彼女を感じることができるかと思えば、次第に香水の効果は薄れていく、少しでも薄れてしまえば、もはや香水の魔力は消えてしまうのだ。
短い時間だからこそ有意義なのだ。
いつも感じている。しかし今日はその香りをいつまで経っても感じることができない。香りはいつもと変わらないはずなのに、肝心の泰子が瞼の裏に現れてくれないのだ。
「どうしてなんだ」
悔しさの中に、
――やっぱり――
という思いがある。分かっていたことかも知れない。泰子との出会いのせいだろうか?
次の日、朝いつもと同じ時間に目を覚まし、普段と変わらない朝食を採り、家を出た。表は小雨が降っている。傘を取って出かけるのだが、それが昨日の朝と同じ行動だったようで仕方がない。
昨日は熊本だったので、そんなことはないはずだ。
表に出て歩いていると、傘をクルクルと回して歩いている人が横を通り過ぎた。
――いつもの人だ――
気になっているので振り返る。だが、そこには誰もいない。
どうしていつもの人だと分かるかって?
それは懐かしい香水の香りがしているからだ。風に乗って声が聞こえる。
――正直者が損をするなんて言わないで――
泰子が自殺をしたのだということを聞いた。自殺の原因は分からない。しかし、あまりにも雅人と泰子の性格は似ていたように思えてならない。原因はそのあたりにあったのかも知れない。話を聞いたのは出張から帰ってきたその日のことだった。「やっぱり」という気がして仕方がない。では、喫茶「コロンビア」で会った人は幻だったのか? いや、それを今さら考えてどうなるというのだろう。
もう二度とこの世で会うことのない人のことを追いかけながら、雅人はずっといつまでも「今日」を生き続けることになるのだ……。
( 完 )
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次