短編集79(過去作品)
大きな屋敷の大きな門構え、そこに黒と白の横断幕が見えてきた。匂いがしないのが夢であるにもかかわらず、線香の香りが漂っているようで、目が覚めるような予感は、この匂いのせいであろう。
目が覚めると案の定、身体から汗が噴出していて、気持ち悪かった。替えの下着とタオルを枕元に置いていたので、急いで服を脱いで身体を拭くと、下着を着替えた。肌触りも心地よく、完全に熱が下がったことを予感させた。頭を触っても熱のある様子はない。しばらく横になっていれば、よくなるはずである。
夢の内容を思い出していた。
普段に見た夢だと、それほど鮮明に覚えていないものである。しかし体調が悪い時に見た夢のせいか、なぜかくっきりと覚えている。時間が経つにつれて忘れていくものなのだろうが、汗を掻いている間は少なくともハッキリと覚えているだろうと思えた。
それにしても不吉な夢だ。気持ち悪い夢だといってもいい。そんな夢を見ることで汗を掻き、汗とともに身体の中から毒気が抜けていくのだ。きっと、汗が乾いた頃には、体調がよくなっているだろう。
本当なら飲みに行こうかと考えていたが、飲みに出なくて正解だったようだ。
それにしても出張先で熱を出して寝込むなど初めてのことだ。小さい頃など旅行に出かけると時々熱を出していたこともあったが、あの時は旅行に出ることが単純に嬉しく、知らない土地でいろいろ見て回ることへの感動で胸が高鳴っていたからだ。今さらこの年でしかも仕事の出張で胸の高鳴りもないものだが、
――熊本は泰子のふるさと――
と思うだけで興奮してしまった自分が少し恥ずかしかったりした。
――あの日が最後のお別れだったのだろうか?
それまでもずっと意識していたはずなのに、声を掛けられなかった自分が情けない。なまじあの日が最後になると分かっているのなら、あの日偶然二人が会ってしまったことも憎らしいほどだ。
運命というものを漠然とでもいいから感じることができるとすれば、雅人はあまり嬉しいものではない。
次の日になると、すっかり体調もよくなり、来た時よりも仕事をスムーズにこなすことができた。商談もうまくいき、前日までが嘘のようにすこぶる順調だった。
食事もしっかりと平らげておいしいと思えるほどに回復していた。人と一緒にする食事はいくら商談相手とはいえ、一人よりは断然いい。
「小林さん、かなりいいみたいですね」
昨日、最後に別れた時に一緒だった尾崎部長が話しかけてきた。
「ええ、昨日飲んだ薬がよかったのかも知れません。ご心配おかけしました」
「それはよかった。昨日はかなり顔色悪かったですからね」
「もう大丈夫です」
尾崎部長の顔を見ていると気持ち悪さを思い出してしまいそうなくらいに、最後は立っているのがやっとだという程度だった。
尾崎部長は雅人には優しかった。年齢も五十近いのでかなりの貫禄を感じる。以前は本社で営業課長をやっていたようだが、今は支社での部長である。時期支社長というところだろうか。
雅人は人から可愛がられることが多い。少し童顔で頼りなさそうに見えるらしいが、そのわりにきっちりした仕事をできるところがなぜか気に入られている。ただ、人によっては嫌がっているようで、露骨に苦虫を噛み潰したような顔で通り過ぎる人もいる。
もちろん、雅人は気付いている。最初の頃はよく悩んだものだ。
――どうして私をそんな目で……
と思ってたが、思ってみても解決にはならない。いい方にだけ考えるようにすることにした。
だが、今でも時々そのことは感じていて、
――正直者がバカをみる――
と思い込んでいる。
だが性格的にどうしようもない。潔癖症で、適当にものを済ませることができない性格なので、上司からは好かれるようだ。だが、同僚や後輩からは、
「何もそんなに杓子定規にならなくともいいのに」
とののしられている。きっと人の上に立つ時にはプラスになる性格だろう。
だが、悲しいかな、自分では人の上に立つ性格ではないと思っている。何でも計算しながら答えが出てこないものは理不尽と考え、自分で受け入れることができない。要するに臨機応変ではないのだ。
どちらの性格も分かっていて、相反するものであるが上に、そのジレンマに悩まされてしまう。人を動かす上で、その性格はマイナス以外にはならないだろう。
しかも元々が従順で人を疑うことをしない。そんな性格が同一の人間の中で形成されているのだ。自分に分からないものが、他人に分かるだろうか? 人が着いてくるはずなどない。
しかし、会社を一歩離れると、人から好かれた。特に馴染みの店である喫茶「コロンビア」の常連の中で、彼を悪く言う人は誰もいない。年齢が一番若いということもあり、まわりが皆商売人で、サラリーマンが珍しいということもあるからだろう。出張から帰ってから一番最初に行きたいところだった。
戻ってきて会社で一仕事を終えると、帰りにさっそく寄ってみた。何をおいても最初に行きたかった場所である。一週間前にも来たはずなのに、かなり以前から来ていなかったような気分になったのは、気のせいだろうか。
表から見ると、本当に久しぶりな気がしていたが、中に入ってコーヒーの匂いを嗅ぐとまるで昨日も来たような気持ちになっていた。表は霞が掛かったように白く見えたのは、アスファルトから立ち上る熱気のためだったのだろう。中に入ってもまだかすかに白く見えていた。
木の匂いも懐かしい。知った顔ばかりというのがこれほどホッとすることだと、他の土地から帰って来て初めて思うことができた。
いつものように店内ではクラシックのメロディが奏でられていた。ピアノ曲で雅人の好きなショパンであった。
冷房の利いた部屋に入ってしまうと、表では感じなかった汗が一気に噴出してきた。お冷を一気に飲み干すと、初めて落ち着いた気分で店内を見渡すことができる。
「こんにちは」
それまで白く見えていた光景が、いきなりクッキリとしてくるように思えた。声に聞き覚えがあり、まさしく待ちわびた声であることはすぐに分かったのだ。
「ああ、こんにちは」
幻ではないだろうか? そこに立っているのは、今朝まで会えるかも知れないと一縷の望みを持っていた泰子ではないか。会えないだろうという気持ちが最高潮に至るに際して、気持ちは喫茶「コロンビア」に切り替わってそれほど久しくなかった。それなのに、実に不思議な心境である。
諦めはいい方で、会えないと思えば気にならない。それだけに目の前に現れた泰子を見て素直に嬉しいと喜べるのだ。
泰子の表情は初めて会った時のような爽やかさがあった。あの最後の夜のことは忘れてしまったかのようなあどけなさを感じる。頬を真っ赤に染めて、まるで田舎娘のようだ。今朝までいた熊本では、きっとこんな表情だったのだろう。
「いつ出てきたんだい?」
「一週間前なんですの。会社の方にお邪魔したら、熊本に出張っていうじゃないですか。私ビックリしましたわ」
「僕の方がビックリだよ。ひょっとして向こうで会えるかもって思っていた人にまさかと思うところで出会うんだからね」
彼女がニコニコしている。
「会えるかも知れない」
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次