短編集79(過去作品)
熊本市内に住んでいるとは聞いていたが、どのあたりかなどは分からない。広い熊本で会えるはずもないのに、勝手に気持ちがうきうきしてしまう。それは、きっと最後に見せたあどけない表情を忘れられないからだろう。
雅人の近所には優しいおねえさんが住んでいた。今でも顔を思い出せるが、その時のおねえさんの表情に似ている。いつも一緒に小学校へと通ったのだが、そのおねえさんも、突然転校していったのだ。
父親の仕事が転勤族だったので仕方がないのだが、最初こそただ寂しかっただけだが、次第にもう会えないという思いが強くなるにつれて、言い知れぬ不安に襲われたのだ。
――おねえさんが好きだったのかな?
と感じたのも、言い知れぬ不安ゆえである。
――もう二度と会うことはない――
そんな予感めいたものがあった。ジンクスのようなものかも知れない。雅人の予感はよく当たると親から言われたことがあったが、確かに予感めいたものを感じた時は、自分の発言に自信があった。その予感が熊本に行く時には微塵もなかったのだ。
初めての熊本という土地で、これほど暑いと感じるとは思わなかった。
「私は熊本出身なので、情熱的なんですよ」
と言っていた泰子、街を歩いていて皆小麦色に焼けているように見えるのは気のせいであろうか。目は輝いていて、ニコヤカに歩いているその姿は、泰子の性格が本当にこの街で育まれたものだということを証明しているかのようだった。
出張先はいかにも熊本市内のど真ん中にあり、九州でも一番と言われる商店街の奥にあった。商店街を抜けて歩いているためか、活気に溢れた熱気を感じることができる。
汗を掻きながらの出張先への訪問だったが、仕事が一段落して表に出た時はすでに夕日は沈んでいて、街には夜の帳が下りていた。
真っ赤なネオンサインを見ていると、泰子との夜を思い出す。出張先の課長に連れて行ってもらった夕食だったが、普段と違う苛立たしさを感じるのは無理もないことだ。
熊本の夜を満喫する暇もなく、ビジネスホテルの自室に帰ると、寒気がしてくるのを感じた。クーラーも切ってテレビだけつけ、横になっていたが、一向によくなることもなく、寂しさだけが募ってくるだけだった。時計を見れば午後十時、ゆっくり寝ようと思っていたが、そうも行かないようだ。
風邪薬を買いにとりあえず表に出た。近くにちょうどドラッグストアがあり、きつい身体を引きずるようにして向かった。
「大丈夫ですか?」
少し前かがみでショーケースを覗き込んでいると、店員が心配そうな顔を向けていた。
「ええ、少し身体がだるくて、風邪かなと思うんですよ」
「それはいけませんね。顔色が芳しくないので声を掛けてみたんですが、身体も重たそうで、やっぱり風邪の前兆かも知れませんね」
それほど顔色が悪いのだろうか。指先が痺れていて、身体の芯から熱さが滲み出ているようだが、指先は氷のように冷たい。感覚は完全に麻痺しているようだ。
「これなんかどうでしょう。かなり効くと思いますけども」
カプセルのような薬の入った箱をショーケースの上に置いた。中には赤いカプセルが入っているようで、見るからに効きそうに思えた。
「眠くなりそうですね」
「ええ、ぐっすりと眠ることができますよ。汗を掻いてくるでしょうから、その時は着替えてくださいね」
そう言って、店員が薦めてくれた。ゆっくりと立ち話などできるほど体調はよくない。他の薬をゆっくりと見てみる暇のないことは雅人自身が一番よく分かっていた。
さっそくホテルに帰る前に近くのコンビニでパンを買ってきた。気持ち悪くてまともに食べられないだろうと思いながらも、空腹で薬を飲むことは胃に悪いと思ったのである。時々胃痛でも悩まされる雅人は、さらに症状を悪化させたくなかったのだ。
部屋に戻ると痺れた指先が少しはましになったようだ。あれだけ冷たかった指先にも暖かさが戻ってきていて、痺れも感じなくなっていた。これで汗を掻いてくれればかなり楽になるだろうと思う、何とかパンを平らげると、買ってきた薬を飲んだ。
最初ベッドの中で身体が熱を持っているのが分かっているのに、寒気がして震えが止まらなかった。それがいつのまにか心地よさへと変わっていたのだ。
「これなら眠れそうだ」
と感じると、眠りに就いてくるのが分かってきた。重たくなった瞼に負けてしまうことを感じながら、指先は脈を打っていた。
夢の世界の訪れを感じていた。どんな夢を見たのか起きてから思い出せるか自信がなかったが、かろうじて覚えている感じでは、
――ああ、もっと覚えていればよかった――
と言えるような夢だった。夢の世界ではなく現実だったらどんなによかったか……、夢とはそんなものではないだろうか。
誰かがすぐ横を通ったので振り返った。それは自分にとってとても気になる人で、そこにいるはずのない人だった。気になる人であること、そしてそこにいるはずのない人、そのイメージが夢を忘れたくないものにしている。
まわりはどんなところなのかだとか、人がいたかなど、あるいは、いたとしてもそれは大勢なのか、少人数なのか、どれもハッキリしない。だからこそ夢だと言えるのだろう。
振り返ったそこは、自分の知っている場所ではない。それまでは確実にいつもの道を歩いてきたはずだったのに、振り返ったそこは、見たこともない場所だったのだ。
それまで綺麗に晴れ上がっていたはずの空が、にわかに曇ってきた。明かりは遮断されてしまい、影を確認することすらできなくなっていた。最初感じた人は完全に意識から消えていて、環境の変化にうろたえるばかりである。曇天からは雷の音が聞こえ、稲光が目の前を走った。
雨が落ちてくる。冷たい雨だ。夢だと思いながら冷たさを感じている。風邪を引いていて身体のだるさが戻っていないことを意識しているせいか、震えが止まらない。指先が痺れていて、熱が身体の奥に篭っているようだ。
しかし、雨はすぐに止んでしまった。一瞬にして川のように足元を流れるほどの強烈な雨はまるで夕立のようだった。
雲の流れが早い。あっという間に雲間が広がっていったかと思うと、光が漏れてきた。さっきまで真上から照らしていると思った太陽は、すでに西の空を赤く染めていた。夕焼けである。
夕焼けを感じると、身体のだるさはさらに加速していた。しかし、先ほどまでの頭痛は消え、指先の痺れもなくなっていた。あれだけ寒いと思って震えていた身体から、寒気はなくなっていたのだ。
すると急に汗が噴出してくるようだった。
――これで熱が下がるかも知れない――
と感じたのは、薬が効いてきたのが分かってきたからだ。汗を掻き始めるとそれまで身体に蓄積されてきた風邪のウイルスが汗とともに身体から出てきているからである。それとともに頭痛、吐き気もなくなり、すっきりしてくる。目の前のものすべてが鮮やかに見えてきて、そんな時に感じる夕焼けはじつに綺麗だった。
そのまま歩いていったのは、何か予感めいたものがあったからかも知れない。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次