短編集79(過去作品)
喫茶店の運営は夫婦でやっている。旦那さんが定年を迎える前に、老後の楽しみで奥さんに喫茶店を始めさせたようだ。奥さんも気さくな人ですぐに人と馴染める性格なので、始めた時から違和感もなく、まんざらでもなかったと話してくれた。
「喫茶店って、いろいろな人が来て、いろいろな話をしてくれるでしょう? それが楽しいのよ。ありきたりな言い方だけど、実際に経験してありきたりな言葉がやっぱり一番なんだって感じましたよ」
奥さんの顔はいつ見ても輝いている。それが常連さんを掴んで離さない理由なのだろう。常連の人たちの中で雅人は一番若い方だ。商店街のはずれにあるため、学生が立ち寄ることもない。学生が来るような賑やかな店ではなく、シックな雰囲気がレトロさを醸し出しているようなそんなお店なのだ。
「社会人になってもちょくちょく寄らせてもらいますね」
という公約どおり、雅人は今だにこの店の常連である。
店の名前は喫茶「コロンビア」。店の名前もありきたりで、
「コーヒーのコロンビアが好きだからです」
と、予想通りの答えを聞いて思わず吹き出しそうになったくらいだ。
会社に入って最初の三ヶ月間はあっという間だった。一日一日はものすごく長く感じたのに、実際に過ぎてしまうとあっという間だったように感じることが本当にあるんだと、初めて気付いた時だった。
「コーヒーって魔力があるんですよね」
奥さんが呟いた。
「どういうことですか?」
と雅人が尋ねると、
「同じように作って同じように匂うのに、実際の味はまったく違う時がある。その時の精神状態によって、苦くも甘くもなるんですよ。口をつける前から想像した味とまったく同じ味なんですよね。ということは、私が入れるコーヒーも、同じものでも、一人一人感じる味が違うってことなんですよね」
しみじみ語っている表情は虚空を見つめているようだ。
それとまったく同じセリフで答えてくれたのが、それから五年後の泰子に出会った時だった。
泰子はまだ大学生である。雅人の会社にアルバイトとして数ヶ月来ていたのだが、急にやめてしまった。会社としては期待していたので、少し痛手だったが、何とか社員でこなせることができたので、誰も気にするものはいなかった。
あまり目立つタイプの女性ではなかった。仕事は黙々とこなしていて、こちらが指示したことはもちろん、あれこれと言わなくとも、気がついて資料を作ってくれていた。重宝なアルバイトだったのである。
入社三年目である程度仕事にも慣れ、入ってきた後輩を指導する立場に立っていた雅人の直属であった泰子は、痒いところに手が届く女性だったのだ。
「小林さんって、真面目すぎるところがあるみたいですね」
一度飲み会があったが、その席で泰子に言われた。
さすがにドキッとして、
「そ、そうかい?」
思わず口ごもってしまった自分が情けなかった。それに気付いたのか、
「ごめんなさい。ひどいことを言いましたわね」
と言っていたが、
「いや、いいんだ。自分でも思っていて、損な性格だと思うよ」
しみじみ言うと、
「そんなことないですよ、私なんてあまりにもハッキリとものを言う性格なので、自分が嫌になります」
「そんなことないですよ。私ももう少し気楽にいければいいのにと思いますよ」
お互いの性格を羨ましく思って話が盛り上がったものだ。酒の席だけに無礼講ではあっただろうが、それでもしっかり気を遣いながらの会話だったにも関わらず、これほど楽しい思いをしたことなどなかった。
その日、泰子は信じられないほど酔っ払っていた。
「大丈夫かい? こんなになっちゃって」
と肩を貸してあげていた雅人も、人のことは言えない。しっかりしているつもりでも足腰がまともに動いていないのだ。ふらふらしているつもりはないのに、躓きそうになる。いつもであればあるはずの自覚がないのだ。
その足は自分の意志を反映してホテル街へと向いていた。しなだれかかる泰子も身体のコントロールはままならなかったようだが、身体ほど気持ちはフラフラしていないようだった。歩いているところがホテル街であることは先刻承知のようで、入り口から先は泰子に強い力で引っ張っていかれるように感じていた。
部屋へ入ってからの泰子は何かに取り憑かれたように身体を貪ってくる。いつもの冷静な彼女は影を潜め、まさしく本能の赴くままである。
――これが女性というものか――
という感動に、その相手が自分であることの喜びを遺憾なく感じ、征服感が男の性であることを知るに至ると、至福の喜びの何たるかを肌で感じていた。
泰子はその日、実に上機嫌だった。雅人の腕の中で歓喜の声をあげたあとは、まるで子供のようにはしゃいでいた。それは会社で見せる大人の女ではなく、可愛らしさで満ち溢れた顔は、今まで腕の中で乱れた女性だということを感じさせないものだった。
「私、今日ちょっと変なの」
「見ていて分かるよ」
「あなたとこうしていると、この瞬間がずっと続いていきそうに思えるのよ」
「同感だ」
雅人は多くを語ろうとしない。あまり多くを語ると気持ちの中にあるものが漏れていきそうに思うからだ。余計なことを口にして、すべてが消え去ってしまうことを恐れた。
本当は、その言葉の意味をハッキリと確かめたくて仕方がない自分を嗜めるのに苦労した。高ぶる気持ちを抑えることがその時の急務だったのだ。
だが実際にはそんな甘い時間が続くわけがなかった。
予感がなかったわけではない。後から考えて、
――こんなうまい話が転がっているわけもないか――
と自分に言い聞かせたが、言い訳をしているようで、情けなくなる。
翌日になると泰子は急にやめることになった。大学の方も一段落し、少し田舎に帰るということを話したのだそうだ。
事実そうだったに違いない。田舎が旧家だということを以前に話していたのを思い出した。しかし、なぜそれを昨日言わなかったのだろう?
必要以上に可愛らしさがあったことを思い出していた。妖艶な雰囲気を見せたかと思うと、どうしてそこまで子供っぽくなれるのかと思ったほどの愛くるしさだった。
「見て、これが私のすべてよ」
とでも言っているかのようであった。当分頭から離れそうもない。
しばらくは、幻のように脳裏から離れなかったが、ある時期をきっかけに思い出さなくなるようだ。その時に何かがあったというわけではない。急に頭から消えていくのだが、消えていくという意識はあるのだ。だから「ある時期」と断言できるに違いない。
それでも半年は掛かったように思う。一人の女のことを忘れるのに半年も掛かったなど信じられないが、過ぎてしまえばあっという間だった。
確か彼女の田舎は熊本だと言ってたっけ。
「私は熊本出身なので、情熱的なんですよ」
と笑いながら事務所で皆に話していた光景が今でも目に浮かんできそうだ。
熊本に出張に行ったのは彼女がやめてから三ヶ月目のことだった。熊本出張と言われてドキッとしたあの時の心境を忘れることはない。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次