短編集79(過去作品)
今日を生き続ける
今日を生き続ける
交差点を歩いていると、ふと後ろを振り返ってしまう時がある。
ザワザワという音とともに喧騒とした雰囲気の中を歩いていると、目の前を通りすぎて行った人の顔を確認したくなるのだ。
――これだけの人がいるのに――
と思いながら歩いているが、振り返った先に気になっていたはずの人を求めることはできない。
いかに後姿とはいえ、気になった人を見つけられないと悔しいものだ。立ち止まって探すのだが、時間が経つほどに分からなくなる。当たり前のことで、すぐに踵を返して歩き始める。
小林雅人が振り返る時、それは小雨が降っている時が多い。真っ黒で大きなコウモリ傘に混じって、カラフルな女性の傘が見えているのだ。そんな中で何が気になって雅人が振り返るのか、最初は自分でも分からなかった。
――そうだ、傘がクルクル回っているのだ――
そう思うと、相手の女性が、かなり小柄な人であると想像がつく。背の高い雅人ではあるが、傘がクルクル回っているのを上から見下ろしている姿を思い浮かべると、かなり小柄でないと説明がつかないからである。
何度振り返ったことだろう。しかも場所はいつもここなのだ。男としての雅人を振り返らせる女性、どんな女なのかを想像しようとするのだが、容易なことではなかった。
会ったことがある人を思い浮かべているように思っていたが、どうやら、追い求めている人は記憶の中にいる人ではない。
都会の雑踏の中で、ひときわ都会を思わせるスクランブル交差点、少し行けば百貨店が立ち並ぶショッピング街に出る。その途中駅から歩いてくると、ビジネス街へと出るのだが、スーツを着たサラリーマンが颯爽と歩いているかと思えば、その途中にある公園で、くたびれたスーツにくたびれたカバンを持った人が、いつも数人タムロしているのを見かける。
見ていてあまり気持ちのいいものではないので、なるべく顔を合わさないようにと、早歩きをしていた頃の学生時代が懐かしい。サラリーマンとなった今では、少し事情が分かってきたのか、同情も感じる。しかし、今度は違う意味で目を合わせることができず、最初から公園の近くに寄り付かないようにしていた。
その公園のまわりには予備校が多く、何を隠そう雅人も大学時代にはこのあたりに毎日来ていた。しかも昼間の公園で弁当を食べたこともあった。本当は嫌だったのだが、クラスメイトが公園で食べるのが好きだったこともあって、仕方なしに付き合っていたのだ。
その頃から比べれば疲れた雰囲気のサラリーマンが増えたような気がする。学生時代に見ていた頃というと、社会人というものに対して漠然とした不安を持っていた頃だった。嫌でも社会人になる立場で、希望と不安に満ち溢れている者にくたびれた姿は、
「百害あって一利なし」
である。
昼頃になると、近くの仕出屋さんがお弁当を売りにライトバンでやってくる。そこに群がるOLたち、彼女たちは公園のベンチでひと時の昼休みを過ごす。くたびれた男たちは自分たちの立場を理解しているのか、まるで場所を追われるように端の方へと移動する。
昼休みはOLたちが主役である。我が者顔で振舞う彼女たち、当時の予備校生にはその姿が眩しく見えた。自分たちがサラリーマンになれば、
「何てぶざまな格好なんだ」
と思い、会社での淑女のような顔はすべてが偽者に見えてくるほどである。ハッキリいって男にとってどんな立場であれ見たくないものだった。
とはいえ、彼女たちも生き抜きをしないとたまらないのだろう。自分がサラリーマンになってすぐの新入社員の頃には幾分かの同情もあった。
ビルの間を吹き抜ける風、夏の間は涼しくて気持ちいいのだが、冬はたまらない。日が当たらない上に、風の冷たさと言えば一時もじっとしていられないものがある。さすがにその時期だけは、昼休みといえども、くたびれた男たちの天下だったようだ。
今でこそサラリーマンとなって、公園に近寄ることもなくなったが、時々は思い出している。営業で出かける時に通りかかっても公園の中を覗こうという気持ちにはならないからだ。
――そこはもう自分が気にする世界ではない――
サラリーマンとして見てはいけない世界だと思っているからだ。学生の頃に感じていた漠然とした不安はない。だが、今は現実問題として不安よりも行動がともなうことで毎日が学生時代の不安とは比べものにならない。覚えることはたくさんあるし、何しろ意識改革が一番求められているからである。
元々従順な性格だと思っている。
疑うことをあまりしない性格で、それが自分のいいところだと思ってきた。しかし、損をしたことも幾度かあり、それを自覚もしていた。
「まあいいか」
と思っていたのだ。
だがそれでも性格を変えなかったのは、そのうちにこの性格が日の目を見ると思っていたからに違いない。
――正直者が損をするなんて許されない――
そんな持論だったのだ。
それが一人の女性によって覆されようとしている。それまでは損になると思っても、人のいうことを聞いてきたが、その女性は自分が触れたり感じたりしたことでないと信じないタイプだった。
そんな女性を好きになってしまった雅人、それはきっと運命的な出会いだったに違いない。
初めて口を利いたのはいつだっただろう?
馴染みの喫茶店で声を掛けた自分が信じられない。馴染みの喫茶店に知っている人も来ていたという事実、それがたまらなく嬉しかったのだ。会社からそれほど近くなく、本当ならば誰にも知られたくないと思っていた場所であるが、相手が女性ともなれば話は別だ。会社でしか見たことのない女性の姿、公園のベンチで群がっている姿はもうたくさんだが、一人静かに本を読みながら佇んでいる姿は、眩しく見えた。
学生時代に好きになって告白した女性もいた。結構好みのタイプの幅は広い方だが、一人を好きになれば一途なのも雅人の性格で、自分でもいい性格だと思っていた。しかし元々は自分から好きになるよりも、好きになられる方が多かったかも知れない。ただ、鈍感なので、それをどこまで分かっていたか疑問だった。
一人に決まれば移り気しないところが、女性には分かるのかも知れない。誠実に見えるのか、女性の中には興味本位で近づいてくる人もいたが、後で人に聞かされて、
「彼女はそんな人じゃない」
と愕然としたこともあったりした。
「お前は人がいいからな。疑うことを知らないんだな」
と言われ、その目が哀れみを帯びていて、見られている自分が惨めになるだけだった。
だが、それも自分にとっての長所だと思っていたからどうしようもない。少しでもいやなところであるならば見えてくるものが見えてこないのだ。
雅人が通う馴染みの喫茶店は、学生時代から利用していた。常連さんも結構いて、近所の商店街のオーナーが主であった。午前中などは店の開店を奥さんに任せ、情報収集を兼ねてモーニングコーヒーを飲むのだと言っていた。商売人が集まると活気に溢れていて、学生時代など分からないまでも聞いているだけで楽しくなってきそうな話だった。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次