短編集79(過去作品)
何を根拠にそう感じるのか分からないが、とにかくそう感じる以外に自分を納得させることができない。時代的にこの顔の男性と会っているはずがないというもので、友達の顔に浮かんだその年齢はかなりの高齢だ。口元やあごには白い髭を蓄えていて、いかにも貫禄を感じさせられる。その表情は写真である。そのため、明治以降の人物であることは間違いない。
幕末にまだ興味のなかった頃なので、よく分からなかったが、今見れば分かるかも知れない。その時は肖像画を思えていても、幕末から明治にかけて興味を持ち始めた頃には、すっかりその顔を忘れてしまっていた。覚えていないことがよかったように思えるのは気のせいであろうか。
萩という街に足を最初に踏み入れた時、またもう一度この場所に戻ってくるような予感があった。この街を歩いていてそのことをハッキリと思い出したのだ。それまでは記憶の奥にあったのだが、完全に封印されていたので分からなかった。それだけこの場所に初めて来た時にいろいろなことを感じたのだろう。
萩には、忘れていたものを思い出させる雰囲気がある。
それは今まで生きてきた自分の人生以外にもあるような気がしている。もっと落ち着いた気持ちでこの土地に佇んでいたように思えるからだ。
萩という街を歩いていて、情緒を感じるが、それはまるで昔住んでいたことがあるような感覚である。子供の頃に感じた垣根のある家、それほど高くない垣根の向こうに夏みかんが植わっていたのを一番印象的に覚えている。夏みかんといえば萩の名物だ。中学の頃来た時、氷の入った夏みかんジュースを飲んでおいしかったことを思い出した。冬になればホットがおいしいと聞く、一度飲んでみたいと思っていた。
垣根の家というと、萩の武家屋敷には多く見られる。昔からの佇まいとそのままに残した街、あたりには夏みかんの匂いが漂っている。
柑橘系の匂いは嫌いではない。好きだとハッキリ言えるわけではないが、何か鉄分を含んだ匂いを感じるのだ。それがなければきっと大好きだったと思うのだが、気持ち悪さをともなう鉄分の匂いは、不快感以外の何ものでもない。
柑橘系の匂いに不快感を感じたのは、萩に再度来て初めてだった。
――血の匂い――
そう感じたのもまんざら当てずっぽうでもない。昔から不器用で、工作をしながら怪我をしてよく軽い出血をしたものだが、ひどい時は病院で数針縫うこともあった。血液そのものが気持ち悪い匂いというわけではない。まわりにある医薬品の匂いが血液と交じり合って起こす匂い、それが不快感に繋がるのだ。
小学生の頃、校舎は油引きだった。鉄筋の校舎が主流で、一部が木造だったので、アブ油引き校舎は珍しかった。女の子などは油の匂いでむせ返っていたが、義弘は却って懐かしさを感じるのだった。学校の机には穴が空いていて、そこには炒った豆を隠して食べていた生徒がいたんだと先生が教えてくれたことがあった。その先生はすでに白髪交じりでそろそろ定年ではないかと思えるほどだったが、
「私がまだ若かりし頃の話だよ」
と言っていたが、想像すると浮かんでくるのが油引き校舎の匂いだった。
夏の暑い時などたまらないだろう。幸いにも夏は冷房の利いた新校舎での授業ばかりだったので、その苦痛を味わうことはなかった。
だが、新校舎での授業を受けている時、ある日いつもと違う匂いを感じた。
「先生、変な匂いがします」
と、授業中に訴えたが当時の担任にクラスメイトは、
「そんなことはないですよ。いつもの油引きの気持ち悪さしか感じません」
と答えていた。義弘には感じない油引きの気持ち悪さだったが、今度はそこに違う匂いが入っただけで、敏感に感じる義弘と、それに気付かないクラスメイトという逆の構図ができあがっていた。
「そうかな? 気のせいなのかな?」
と、その時は思ったが、あれから数年経って交通事故を目撃した時に感じた匂いから、学校で感じた嫌な匂いをハッキリと思い出すことができたのだ。
――やっぱり、血の匂いだったんだ。だけど、どうしてあの時教室で血の匂いなんか感じたのだろう?
不思議で仕方がなかった。しかも感じたのは義弘一人、他の人は誰も気付いていないというのも合点がいかない。
「武家屋敷を回っていると夏みかんのいい匂いがしますね。小さい頃にうちの近くの空き地に植わっていたのを思い出しましたよ」
「そうですね。私も同じです。垣根の向こうに見える夏みかんの木が、ここの武家屋敷を見ていて目を瞑れば瞼の裏に浮かんできそうなんですよ」
弘子も同じようなことを感じているようだ。
「でもね……」
弘子が続ける。その表情には少し影を感じ、不気味な雰囲気すら感じられた。
「垣根の向こうの家を見ていると血なまぐさい雰囲気を感じるんです。そして昔の戦が目を瞑れば浮かんできて、時の声が耳鳴りのように聞こえてくるんです」
自分が感じる変な匂いに似ているが、どうやら話を聞いていると違うようだ。
「私、気になるものをじっと見ていると、何が気になっているのか、瞼の裏に浮かんでくる時があるんです。萩に来て武家屋敷などの昔の家を見ていると、そこに住んでいた人の末路が見えてくるんです。これは過去に起こったことで、本などを読んで知っていることだから予知能力とは違うんでしょうが、思い込みのようなものなのかしら?」
「そうかも知れませんね。じっと見ているとその人の過去が見えてくるようなことがあるんだって聞いたことがありますよ」
とは言ったものの、義弘にも半信半疑だった。だが、自分にもその兆候があると思っているだけに、弘子の話をまんざら無視することはできない。しかし超常現象だと考えられることも事実で、霊感が強いと、霊が乗り移るというではないか。弘子も義弘もたまたま霊感が強くて、霊のいるところですぐに乗り移られてしまうとも考えられなくない。そして霊魂が身体を支配したところで、記憶を消してしまったら後のことは覚えていないだろう。それでもふとしたことで思い出すことがあるとすれば? いろいろ考えてしまうが、考えられないことではない。
少し考えさせられる話にもなったが、そのおかげで却って弘子への親近感を深めた義弘だった。食事もほとんど平らげ、小食の義弘にしては、久しぶりに食事というものを満喫できた気がした。しばらく横になって落ち着いていると、かなり疲れていたのか、よこに弘子がいるにも関わらず、襲ってくる睡魔に勝てなかったようだ。
気がつけば布団の中にいた。横では弘子が寝息を立てている。食前酒で飲んだ日本酒の影響もあってか、身体のだるさを感じていた。だが、それは決して不快なものではなく、布団が肌に当たって、むず痒さすらあった。
身体が敏感になっているのだが、隣の弘子の柔肌の感触は物足りなさがあった。
――女性の身体ってこんな感じだったかな?
今までに女性を知らない義弘ではない。しかし、すべてを相手に任せているばかりで主導権を握ったことなどなかった。女性に対しての欲求は高いにもかかわらず、すべてを相手任せでの欲求不満の解消法しか知らないのだ。任せることの快感を知ってしまえば、自分から与えることはないのかも知れないと思っていたほどだ。
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次