短編集79(過去作品)
としみじみ感じる。自分の性格がまだ不安定で、しっかり形成されていないことを感じさせられる。
弘子にも感じた匂いを女性に感じるのは初めてだった。
――離したくない――
それは本能が感じることだった。その本能が男としての本能でもあることを義弘は分かっていた。だが、そんな目で見ているのではないかと思うと、少し不安でもある。
露天風呂に浸かって戻ってくると、彼女の部屋に二人分の夕食が用意されていた。
「せっかくなので、一緒の部屋に用意していただきました」
と言って弘子はニコヤカに笑っている。そこには不安などは微塵も感じない。だが、まだ義弘には完全に理解できる性格には思えなかった。
目の前に並んだ懐石料理、見るからにおいしそうである。日本酒が用意されていて、
「やっぱりこういう旅館では日本酒だと思いまして、いける口なんでしょうか?」
「ええ、まあほどほどにですけどね」
義弘はビールよりも日本酒の方が好きだ。元々小食で胃が小さいと思っている義弘に炭酸系のビールはすぐに腹が膨れる。しかも懐石料理は魚中心の料理が多く、魚中心なら日本酒と勝手に思っている義弘には嬉しかった。
食事をしながら酌をしてくれるが、
「私もいただこうかしら」
ほんのりと赤らいだ顔が可愛らしく感じられる。ゆっくりと盃を口元に持っていく姿はまるで三々九度の盃ごとのように思える。
「そういえば高杉晋作もお酒が好きだったようですね」
「ええ、私もそれで日本酒を飲むようになったんですよ。どうもビールは苦手なんです」
肖像画のあの顔から酒が強いという雰囲気を窺い知ることができない義弘だったが、三味線片手に、詩を読みながら酒を酌み交わしている高杉晋作の姿がおぼろげに浮かんでくるのを感じた。
「私の祖先は昔、町民だったらしいんですよ。しかもこの長州という土地の人を好きになったらしくって、それから後のことは分からないらしいんですけどね」
「それはいつ頃のことですか?」
「そうですね、幕末の、ちょうど高杉晋作の時代くらいだと思います」
「彼は、身分制度に賛成だったか反対だったか分からないですが、日本の国を憂いて、武士の時代ではないと予見していたような気がして仕方がありません」
「いわゆる『奇兵隊』ですね?」
「そうです。後から考えれば彼のような意見を持っている人がいなかったのが不思議なくらいですが、どうしても時代が許さないんでしょうね。あくまでも徳川幕府三百年の歴史と武家制度の根底を覆すような考え方は天下をひっくり返すようなものですからね」
あの頃の長州藩は過激な路線で有名だったが、幕府との戦争や、外国との問題で何度も藩の滅亡の危機を迎えたが、ことごとく克服している。それだけ長州藩というところは、卓越した人材の宝庫だったに違いない。
「でも、彼は病死で短命だったので、もったいなかったですね」
と義弘がいうと、なぜか少し弘子は黙ってしまった。何かを言いたいような素振りを見せるのだが、その言葉を何度も飲み込もうと必死だったように見える。
――どうしたのかな?
この話題の前は義弘の話に興味津々で、頷く時も大げさに何度も頷いていた。それなのに、完全に雰囲気が変わってしまったのだ。
人の死について真剣に考える人かも知れない。
義弘自身も「死」というものについて真剣に考えたことが何度もある。死ぬということが恐ろしく怖くて、生きていること自体が怖くなるのだ。
友達と中学時代に「死」について話をしたことがあるが、怖くなって途中でやめてしまった。友達はあまり怖いなど考える方ではなく、しかも人に対して気がつく方ではなかったので、さらに続けたいようだった。そんな友達を恐ろしくなったのは言うまでもなく、無頓着な性格がこれほど人を不愉快な気持ちにさせるということを思い知らされた。
「死んだらどうなるんだろうね?」
元々そう言って話題を振った自分が悪いのだ。
「まあ、一般的に考えれば二つだろうね。一つは極楽行き、そしてもう一つは地獄行き」
「それだけなんだろうか?」
義弘はもう一つ加えたかった。呟くように言ってみたが、
「いつの日にか、違う人となって生き返るという考え方は?」
この意見を聞いた友達は、即座に、
「ないね」
と否定した。その時の表情は、
――人間ってこれほどまでに無表情になれるんだ――
と思うほどであった。まるで相手から見下ろされているようで、顔色は土色に変わっていて、決していい顔色には見えない。それこそ死の世界からよみがえった男の顔って、こんな顔ではないだろうかと思えるほどだった。
歴史を勉強していれば、人の死というものを無視して考えることができないようになっていた。今のように生命を他人から脅かされることを日ごろから考えなくてもいい時代ではピンと来ないだろう。しかし、昔は戦、斬首、下克上、などと常に生命の危機に晒されていることが多かった人間の気持ちがどんなものだったか、想像もつかない。
「昔の人は死を恐れなかったのかな?」
思わず義弘が呟いた。
「そんなことはないさ。君は死を恐れない人間がいると思うかい?」
「いるわけないよな」
「そうさ、それにしても君はどうしても歴史に話を結び付けたいみたいだな」
そう言って友達は苦笑いをしていた。さらに友達は続ける。
「死を恐れない人がいない。確かに死というものに対して今の僕たちはよく分かっていないし、考えることもないのでそんな風に思うのだろうけど、逆に昔の人のように死と背中合わせのような生活をしている人は、絶えず死の恐怖におののいていたことだろうね。だから却って死に対して感覚が麻痺していたとも言えるんじゃないかな?」
「そんなものかな?」
と口では言ったが、彼の言葉には説得力がある。まるで、自分が昔の人の生まれ変わりで、それを裏付けるような発言に見えた。
彼の言葉は、彼を見ているとそのすべてが裏返しに見える。
人が死んで生まれ変わることはないと断言した彼のセリフには、まるで昔の人の魂が乗り移っているようにしか思えない時がある。さらに、死の恐怖について語る彼の顔には、真剣味がある時とない時の差がハッキリしていた。
彼の顔を見ていて、誰かに似ていると思うことがあった。歴史上の人物なのだが、いったい誰だったんだろう。写真に見覚えはある。有名な人物で、教科書などにもその肖像画が掲載されているはずだからだ。
時々写真の表情と瓜二つで、ビックリさせられてしまうことがある。
「君は歴史上の人物の誰かに似ているんだが誰なんだろう?」
聞いてみたことがあった。
「それは他の人にも言われたことがあるよ、どうかした拍子に肖像画に似ているらしいんだ」
やはり義弘の目に狂いはなかった。他の人も思えるほどの有名な人物、いったい誰なのだろう。
よく見ていると、その顔の人物にずっと会っていたような気分になるから不思議だった。だが、心の底で思うのだ。
――おかしい、この人のこの顔を私が知るわけはないのだが――
作品名:短編集79(過去作品) 作家名:森本晃次