短編集78(過去作品)
憧れ、それこそが聡子の中に潜在している才能かも知れない。文芸サークルに入って最初に気付いた自分の性格とも言えるだろう。
「憧れが発展したのが、想像力なのよ」
同じサークルの仲間に話していた。
「聡子さんは本当に自分の好きなことには最高の力が発揮できる人なのね」
皮肉とも取れそうな言葉だが、聡子は敢えて本気にした。そう思うことで自分の個性が発揮できればそれに越したことはないではないか。
ここ喫茶「ポエム」が最初に気になったのも、店の名前に惹かれたからだ。文学少女だった頃を思い出していた。
――そういえば、最近作品を書かなくなったわ――
仕事が忙しいのが一番の理由だったが、何とか仕事も一段落して落ち着いて来たのだから、また再開してもいい状況ではある。実際にまた創作意欲が戻りつつあるのも事実で、歩く時も漠然と歩かずに、周りを気にして歩くようになっていた。
いつも物事を絶えず考えながらの聡子は、歩いている時もしかりで、最近の頭の中は仕事のことでいっぱいだった。生活すべてが仕事の延長のようで、元々生活に区切りをつけるのが苦手な聡子は、あまり几帳面な性格とは言えないだろう。幸か不幸か、神経質になることなく仕事を無難にこなせたのだから、性格の向き不向きも分からないものである。
喫茶「ポエム」との出会いは、そんな仕事の延長のような生活を元に戻すためにちょうどよかった。
コーヒーには少しうるさい聡子は、自分でも部屋でコーヒーを作っている。コーヒーの香りに囲まれた生活を夢見ていたのかも知れないが、特に喫茶「ポエム」のように木の香りが漂いながらのコーヒーは格別の思いがあるのだ。
喫茶「ポエム」ではいつも一時間ほど時間を潰している。なぜならそこから向かう先は自宅ではないのだ。
もっと早く行けばいいのかも知れないが、一人で部屋にいることを嫌う聡子は一時間という時間を有意義に過ごしている。
喫茶店を出て向かう先、そこはマンションの一室、いつも歩きながら初めて行った時のことを思い出している。
いかにも男の部屋という感じのところに上がりこんだのは、酔いも手伝ってのことだった。酔ってでもいなければ男の一人暮らしの部屋へなど行けるはずもない。だが、以前からそれを聡子自身望んでいたことではなかっただろうか。酔った勢いということで自分をごまかそうとしているが、実際はそれだけではないはずである。
タバコ臭かった。
それが第一印象だ。酔っていると匂いには敏感になるが、きっと鼻の通りがよくなるからだろう。それにしても、彼がそこまでヘビースモーカーだとは知らなかった。
「江崎くん、このソファーの上でしばらく横になっていたまえ、それで少し楽になるはずだ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて少し横にならせてくださいね」
そんな会話が最初にあったように思う。それから聡子はしばらく眠ってしまっていたようだ。
気がつくと、
「おはよう。江崎くん」
そう言ってすぐ横には彼がいたのだ。その表情は会社で見せる表情とは違い、余裕さえ感じられた。聡子にとって余裕のある表情は癪だった。かといってうろたえているのも彼らしくなく、どんな表情が似合うのだろうと考えていたが、結局自身ありげなその時の表情が一番彼らしいと感じたのだ。
なぜ彼に余裕のある表情をされるのが癪なのか? それは彼には妻子がいるからである。妻子がいる男性だと分かっていて、それでも聡子は抱かれたのだ。そのことを予想しながら待ちわびていた自分を恥ずかしくも、可愛らしく感じていた。
「あまり見ないでください」
「君は本当に可愛い。君が私に憧れていたことは、ずっと前から知っていたよ」
まるで彼の前ではすべてを見透かされているようで、余計に顔が赤くなるのを感じた。彼に抱かれてみたいと思っていたことも、知られてしまったのであるまいか。そういう意味でも余裕が忌々しく感じるのだ。
聡子は気持ちが顔に出るそうだ。同性の友人には結構敏感なもののようで、女友達に言われたことがあった。しかし、男性も気付いていて言わないだけかも知れない。気を遣ってくれているのだろうが、言ってくれた方が気が楽というものである。
男性を意識し始めたのが遅かった聡子は、高校の頃の先輩に憧れていた。先輩の無口でぶっきらぼうなところが好きだったのだが、自分のまわりにいる男性の軟弱なところばかりを見せられウンザリしていた。特に学生時代などまわりには軟派な男しかいなかったのだ。
先輩に告白をできなかったことが、今でも聡子には心残りだった。フラれるのが怖いというのが最大の理由ではない。フラれるよりも嫌われる方が嫌なのだ。
潜在意識の中に先輩に似た男の人を探していたはずだ。その人が先輩でないことは分かっているはずで、仮に先輩が自分の前に現れたとしても果たして最初に感じた時と同じような感情が芽生えてくるか疑問である。却って違う人の方が似ているだけに昔の先輩を思い起こせそうに思えてくる。
それが課長の須崎だった。
入社の時に面接してくれたのも須崎だった。さすがに面接の時は人懐っこそうな雰囲気に感じたのだが、実際に配属になり須崎課長の部下となると、少し雰囲気が違っていた。
「課長って、あんなにぶっきらぼうだったなんて思わなかったわ」
同期入社の女子社員の共通した意見である。
「そうよ、面接の時とはまるで別人だわ」
それを聞いて聡子も大きく頷いていた。
――私にだけは違う態度をとらせてみたい――
と思っていたが、それがその時に感じたものだったような気もしてした。
入社してからの数ヶ月は仕事を覚えるのに必死でそれどころではなかった。課長も新入社員が一人前にならなければ管理者としての力量を疑われるので、必死だったはずである。時々大きな声で叫んでいたように思うが、聡子は叫ばれたことがなかった。
それが意識してのことだとは思わなかったが、他の人はどう感じていただろう?
贔屓されているように見えたかも知れない。他人の目を敏感に感じる聡子だったが、そこまではさすがに分からなかった。物覚えのよさは学生時代からで、怒られることが少ないのも当然だった。
気になるのは男性の目よりも女性の目だった。男性は所詮気になる人でなければ異性ということで、遠慮が先にくる。女性同士ほど露骨なことはないはずだ。
初めて入った男の部屋、タバコの匂いとともに、かすかだが香水の香りがした。
暖かい肌に包まれながら感じたのだ。汗の酸っぱい匂いに混じって甘い香りがしてくる。
まるでリンゴの香りのように酸っぱさの中に甘さを感じるのだ。
男らしさを感じるのだが、強引な感じというよりも冷静で、いつも計算をしているような感じがしていた。
――大人の男――
そんな感じが漂っている。タバコの匂いに父親を感じ、香水の香りに兄のような雰囲気を感じていた。須崎の名前は、義明という。いつの間にか下の名前で呼び合うようになっていたが、それは最初の夜からだったように思う。
身体の相性はバッチリだった。
「身体の相性がバッチリだと、感情面でなかなか折り合わないって聞くわよ」
少し悪戯っぽく聡子が聞いた時も、
作品名:短編集78(過去作品) 作家名:森本晃次